阪神

2003年9月15日
 阪神が優勝したようですね。おめでとうございます。来年もがんばってください。

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 (以下敵を作るようなこと書いているのでご注意を)

 ・・・・・・などと淡々と書けてしまうのは、私が野球小僧でないからで、どこが勝とうが構わないと思っているから――。

 そもそも、見ず知らず(いや、アイドルなんてそんなもんでしょう?)の人たちの勝ち負けに一喜一憂できると言う事自体理解できない。

 これは、企業戦略に嵌りたくないという意地ではない。自分が戦っているわけでも、自分の知り合いが戦っているわけでもない、自分に利益が入ってくるわけでもない(逆に損している、特番で見たい番組が潰されるとか)のに、何故応援しなくちゃいけない?

 というわけで、地元には悪いがおめでとう。第三者として心から祝福します。

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 http://www.nintendo.co.jp/ngc/hanshinv/index.html

 どうでもいいけど、これは余りに切ない。

 明日から出荷!?完全に金儲けに利用されてますね。

中秋

2003年9月7日
 試験も終わってほっとしていると、オーシツクツクという声を聞く。もう夏も終わりなんだな、としみじみ。

 夏が終われば秋が来る。それは当然のことで、秋といえば十五夜。11日にあるようだが、今年の十五夜は一味違う。

 火星が月に接近するのだ!火星の十五夜。風流ではないか。

 火星最大接近も終わり、ニュースも余り聞かなくなったけれど、肉眼派の私としては見逃せない。(いや、単にマイ望遠鏡の性能が悪いだけだが・・・やっぱり新しいの買うべきだったかなぁ^^;)

 ちょっとだけ欠けた月をチェックする毎日です。

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 思えば明日から本格的に学校が始まる。毎日6時間耐え続け、月末の文化祭に向けて準備。嫌だなぁ・・・・・・将来は絶対趣味に生きてやる!(笑)

ネスケ考察

2003年9月1日
 クリの部屋を、ネットスケープの旧バージョンに対応させました。

 そもそも、ネスケの不備は、表のセルの大きさや背景を指定したとき、セルに文字列を記入していないとそれが反映していないというもの。

 だから、テーブルを色々と組んでもネットスケープで見られてしまっては変なページになってしまう。んで、クリの部屋はそういう構成をしていたわけだ(^^;;;)

 ならば、どうすればよいか。要するにセル内に文字列を与えてやればいいわけなんだろう?。ただし、挿入するのは文字ではなく画像・・・それも1*1ピクセルの透過してあるもの。これならば、セルに殆ど影響がないし、セルの設定も反映されることになる。

 ・・・ちょっとした小技です。まぁ、IEユーザーが遥かに多い世の中なので、気にするほどのことじゃないかもしれませんが。(だけど、元ネスケユーザーとしては、ほっとくのは我慢できない^^;;)

 ところで、このネスケの不備、どうやらバージョン7以降では改善されているみたいだ。ネスケ6を使っている方は、バージョンアップした方がよろしいかと。

 因みに私はネスケ4を愛用しています(爆)

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 さあ今日から新学期!学生諸君、頑張りましょう!

 ・・・・・・と、自らに声を掛けてみる。

 しんどいなぁ、もう。何で世の中は勉学と労働ばかりしているんだろう。人間面白おかしく生きて何が悪いんだか。

 それを実現させるために頑張ろう!

 ・・・・・・と、再び自らに声を掛けてみる。

 ああ馬鹿馬鹿しい。

火星大接近

2003年8月27日
 今夜は火星“最”接近。というわけで、夜空を見上げながら待機していたんですが・・・・・・見えない。

 おかしいなぁ、かなりの明るさになっていると思うんだけど。

 そして東の空を見てみた。微妙に濃度が違っている。西の空も同様。

 ・・・南の空全体が厚い雲に覆われている!

 てなわけで見れませんでした(T_T)

 まぁ、1日や2日過ぎたってどうってことないですよね。歴史的瞬間とか言ってもちょっとだけ大きくなるくらいだし。

 そう、言い聞かしておこう。

質素倹約

2003年8月24日
 店頭価格の表示は税込みでなければならない、という法律ができるのだと先日聞いた。つまり、2000円と示されている商品があったとして、財布の中身に2100円あるかと計算して調べる必要がなくなったということだ。

 うん、これは結構便利なことじゃないか。2000円んとか定価が単純なものならばいいけれど、例えば3480円とか、パッっと見ではすぐに計算できそうに無いものが、そもそも税込みの3654円と店頭表示されていれば、無駄な苦労はしないですむ。(この苦労が必要だ、とも云いたいけど、これは別の話)

 第一、そのままの値段が書かれているのならば、税を払わされたって気分がしないでいい。大丈夫だろう、とお金を出したら消費税の所為で足りなかった、っという経験はよくある。ツケにして、とかマけて、とか図々しいこと言ってもいいんだけど、例えばコンビニの店員相手には通じなかったりする。最近の若い子は心が狭くて悲しいよ。(論点が違うな^^;;)

 ・・・・・・と、表面上は思える。しかし疑問が残る。そんなどうでもいいこと、法律で取り締まる必要が果たしてあるのか?

 この勘繰りには素直に答えが出せよう。つまり、先ほど云ったように、『値段が書かれているのならば、税を払わされたって気分がしないでいい』と消費者に思わせるためだ。何と小賢しいことだろう。

 しかもこれは、今後の布石ではないだろうか。一昨日、財務省がこんなことを言ってのけたらしい。「高齢化が進み、平成18年度以降には必ず上げざるを得ない」

 政治家は“質素倹約”という言葉を知らないのか。よく、税金と言うものに対して国民の生活のために、という講釈垂れることがある。

 確かにそうだ。道路やら学校やらといった公共施設は必要不可欠であろう。しかし、欲張っちゃいけないと思う。

 公共施設は我々の財布から払って得ているようなものなのだろう?ならば、当然今ある公共施設は我々が欲したものとなる。しかし、果たして理不尽に行われる工事によって得た、ピッカピッカに舗装された道路が果たして我々の望んでいたものなのだろうか。実質何の価値も無い文化財を残しておく必要があるだろうか。無理に教育をする必要があるのだろうか。

 消費税を「必ず上げざるを得ない」。この物言いは間違っているだろう。今の税金の使われ方を見直して、欲張りな世の中を変えていき、「上げないように極力努力します」とでも言い切るのが、正しい政治ではないのだろうか。

 いっそ政治家の給料を落とせばよいのではないのだろうか。他に税金を減らす術がないのなら、これしか道はないだろう。なぁに、本当に国民の為と思って政治をしているのなら、当たり前のことではないか。

 日本人の国民性から質素倹約が失われている。人口が増えたとかそんな単純なことじゃなしに、もっと本質的な部分を見ていく必要があるんじゃないだろうか。

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 とにかく消費税を上げてくれるな!

処暑

2003年8月23日
 話題になっているように、もうすぐ火星“最”接近である。と言っても、僕は高度な天体望遠鏡を持っていないため、火星の表面を観察することはできない。となると、何を観るべきか。それは“風流”である。

 この夏に入ってから、今夜、そして今後に至るまで、見上げるだけで闇空の真ん中に1つだけポツンと赤い星が見える。1つだけ、というのは都会ゆえの悲しさで、光害の無い澄んだ環境で見れば、振る様な星空の真ん中に赤い星を見ることができるだろう。

 (個人的には水瓶座の真ん中に火星を置いて、蠍座のアンタレスと較べながら観てみたい。が、都会では叶わぬ夢T_T)

 光害。都会は無駄に夜間にイルミネーションなどと称して光を宙に放つ。何と愚かだろう。頑固とした鉄の建物が輝いていることと、真っ暗闇の宙にの光の粒が一面と散らばっている事と、どっちがロマンチックだろうか。

 日本人の『いとをかし』感覚はどこへ行ってしまったのだろう。実に腹立たしい。都会に住む人々全てが、規則正しい生活によって、街に闇を灯したら、きっと素晴らしい星空が見られるだろうに。(因みに都会の空気はスモッグなどで汚れているから星空が見れない、というのは嘘っぱちらしい。そもそも、青空なら都会で見ることができるしね)

 ・・・・・・話がそれた。とにかく、夜空を見上げると赤い星、即ち火星がポツンと見えるのである。これはすぐに探すことができる。何故なら光害の所為でこの星しか見れないのだから。皮肉なものだ。

 まだ観ていない方は、是非今夜観るべきだろう。冷夏が去って、雨が降らなくなってきたから、雲は出ていないだろうし、南の窓から顔を出せば絶対に見ることができる。

 さて、夜空に赤い星1つじゃ、面白くない。楽しめることは、せいぜい火星がどのように運行するかどうか程度だ。

 さて、ここに無理やり風流を見出そう。大きな山を地上に降ろして、自然の中の火星を観ようか。残念、ここは都会だ。高層ビルの屋上に立って、ビル街の夜景の空に小さな赤い星を見ようか。いや、光害の所為で、マイナス何等星の赤るさと言えど、暗くなってしまう。ポツンとした火星では風流楽しめない。

 となると何をオプションとしようか。星座が駄目ならば、火星よりももっと大きく、もっと輝く星、月だ。

 月と並んで輝く火星。うん、これなら都会の真ん中からでも見えるし、中々風流だ。そういうわけで、月の満ち欠けが記録されている歳時記カレンダーを観てみた。

 日にちは、再接近の8月28日。月の形は・・・・・・新月。

 おいおい、新月ってことは地球の裏側に月があるってことじゃないか。つまり、火星と月を同時に見ることができない。

 まぁ、宙が明るくならないという点からは、火星の表面の観察には持って来いなんだろうけど、風流としては、なぁ・・・。肉眼で観る分には、大きさに余り違いはないだろうが、やはりこの“特別な日”に観ることがより風流に近づくのでは。

 中々天体観察ってのは難しいものだ。

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 閑話休題。

 さて、その歳時記カレンダーを見ると、今日は処暑らしい。

 『処暑』。つまり夏の暑さも折り返して、段々涼しくなっていくんだよー、という日。

 ・・・嘘つけ。

 今日はケッタで遠出したけれど、滅茶苦茶暑かったぞ。シャツはびしょ濡れになるし、腕が茶色くなるし。

 それに、冷房の表示を見ると、室温35度というとてもじゃないけど快適とは言い難い蒸し暑さ。

 どうやら、今年が冷夏だった所為らしい。防災の日(つまり新学期)を涼しく迎えたかったのに、この暑さはまだまだ続きそうだ。はぁ・・・。

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 自問自答しよう。

 馬鹿馬鹿しく日記を書いているが、もうすぐ新学期。新学期の初めにはテストが待っているんだぞ?

 だからどうした。夏休みを気ままに過ごして何が悪い。

 テスト勉強をしなくていいのか?

 する気はあるが、暑くてとてもじゃないけどできる環境ではない。処暑だってのに暑い暑い。

 困ったものだ。

人の造形美

2003年8月20日
 ⇒ http://www7.ocn.ne.jp/~karada/

 人体の不思議展へ行ってきました。いやぁ、かなり面白かったです。

 何がって、まず内容が悪趣味じゃない。生物標本と聞くと、まず真っ先に生々しいホルマリン漬けを思い出してしまうけど、今やそんなのは古い。『プラストミック』という技術らしいですが、外気にさらされても、人が触ってもどうってことない標本が展示されているんです。

 だから、液体に漬かっていないので怪しい感じをしていないし、水気、もとい生気が無く乾燥しているので生々しくない。

 だから、目の前に内臓が突きつけられても単なる“別物”でしかないので、気持ち悪くなかったです。

 内臓や神経や血管がベロンと出ていても、全然見るに耐えない光景って奴じゃないので、他の事に気が回せます。即ち観察。

 まず、学校とかで消化器官とかしょうも無い理論を覚えさせられましたが、百聞は一見にしかず。モノホンの器官が鮮明に目に焼き付けられたので、どんな構造をしているのか、どんな役割をしているのかがしっかり理解できました。小中学校ぐるみの社会見学として行くべきなのでは、と思いましたよ。(生々しくないので、幼心に傷が付くなんてことは有り得ないと断言できます)

 他にも、骨の断面や脊髄の付き方など人体の造形美って奴が見られました。また、胃潰瘍で襞が均されてしまった胃や、タバコでどす黒くなった肺など、不健康だと内臓がこんなにも劇的に変化してしまう様子も見られました。

 標本に触っていいということで、内臓や器官がどうなっているかが、触覚からでもわかります。脳も持てるのは驚きでした。個人的には目を触ってみることをお勧めします。本当に固いんで、レンズだ、ってことが改めて実感させられました。

 教養だけでなく哲学的な面でも有用でした。“別物”としか思えない標本だったんですが、実際は赤の他人じゃないんですよね。人間の構造は、人間であれば同じなんだから自らもそれだ、と。標本を触っていても手が穢れた、なんては思わなかったです。生と死の境界なんて、神格化する方がおかしいんですね。

 解剖の仕方にも驚くべき技術が。スライスしたときの皮膚の残し方とか、骨と筋肉の切り方など、不謹慎ですがあれは科学者の芸術です。人体と人工のコラボレーションとでも云いましょうか。芸術として鑑賞してみても面白いのでは。

 とにかく、悪趣味なんて言葉じゃ片付けられない展示会です。9月からは東京の方でやるそうなので、関東圏の方は是非見に行ってはどうですか?(名古屋でも月末までやってます)

 最後に献体された方に感謝したいと思います。合掌。

夏の暮れ

2003年8月19日
 夏休みももうすぐおしまい。その明けには試験が待ち構えている・・・。

 てなわけで、試験勉強に専念するため更新その他ができないor遅れるかもしれません。

 ・・・まぁ、実際のところ普段と変わらないだろけれど(^^;)

2003年8月17日
 このお盆中に色々とやろうと思っていた(フィールドワークとかバードウォッチングとか)のに・・・・・・雨。

 そんな、今月の始めはからっ晴れが続いていたくせに、何で暇になった時に雨が降るんだ。

 天気予報を見ると、お盆明けから晴れてくるらしい。しかし、お盆明けは文化祭の準備やら夏休み明けの試験勉強やらで忙しくなる(はず)。

 天気ってのはどうしてこうも融通が利かないんだろう。

終戦記念日

2003年8月15日
 今日は終戦記念日だった。とはいえ、テレビでチラっと言及していただけで、それ以外は普通の日常だった。

 さて、戦争を経験していない時代に生まれた者の1人である私は、この記念日に対して何を想えばいいのだろう。

 1つだけある。“反感”だ。

 記念日に何の意味があるんだろう。

 戦争で亡くなった人々を悼む以前に、こんな考えが頭を過ぎってしまう。

 ――今の日本は彼らの尊い命の下にあるのだから、年に1回でもいい。この日本人全てが、戦争について考えてほしい。

 ・・・詭弁だ。何て恩着せがましい。

 そりゃあ、私だって数十年前に起こったことなど紙の上や口伝やらで知っていますよ。

 しかし、それは単に史実だ。自分に経験があるわけではない。

 その時代に生きた人にとっては、確かに意味のある日だ。しかし、経験の無い者にとってはそれがあったという事実でしかない。

 事実という赤の他人に対して、一体何を想えばいいのだろう。

 私は“知ったかぶり”と言うのが嫌いだ。例えば私は科学(理科)という概念が好きである。しかし、学校の理科はそう好きではない。なぜなら、どんな物理法則があろうとも、どんな生物構造があろうとも、実験を伴っていなければ単なる知ったかぶりだ。そして、理科の授業で行う実験などごく少数で、後は科学者たちが奮闘して手に入れたデータを淡々と記憶すること。経験を伴っていないので、全然面白くないし、その驚愕するべき事実を難無く手に入れてしまうのは科学者たちに申し分ない。(勿論、その事実は興味深いことではあるが)

 それと同じことで、蚊帳の中で戦争についてどうこう言うのは、許せないのである。

 だからこそ、終戦記念日というものに思い入れのある方には申し訳ないが、しかしこの日に悼むことは、それ以上に戦争で犠牲になった人々に申し訳ないのである。

 知ったかぶりは何よりの礼儀知らずだと、蚊帳の中の我々に言いたい。

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 とまぁ、冷たい見方をしちゃいましたが、別に私の本質は冷徹だというわけじゃない(はずな)ので、終戦記念日はしみじみと受け止めていますよ、勿論。

 こんな下らない日本(自分を含む)のために、亡くなった彼らが哀れでしょうがない。だからこそ感謝する。

 そういう恩義の念も半分(4分の3くらいか?)あります。

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 ところで、クリの部屋は現在IE絶対推奨です。表タグで複雑に作っている(無意味・・・)んで、ネスケなどだと崩れる恐れがあります。てか、崩れるに違いありません。

 未確認ではありますが。・・・だって、どんな酷くなっているか見るのが怖いもの。でも、ネスケ7だと大丈夫かなぁ・・・?

山紫水明

2003年8月13日
 とうとうお盆に入ってしまった!即ち夏休みも中盤を過ぎてしまった!ご先祖様には悪いけど、この時期はとてもジレったくてイライラするよ、全く。

 ところで昨日まで甲州の本栖湖まで行ってきました。富士五湖の1つで、五千円札の裏に描かれているのもそれだとか。(但し未確認・・・いや、持ってないんで^^;;;)

 と言っても、晴れてなかったんで所謂“double-Fuji-yama”(なんて言い方はありません)は見えませんでした。残念・・・。

 その代わり、湖でなく森を見る事ができました。近辺の山を軽く登って、頂から富士山を望んだところ、山紫水明といった光景じゃなしに、滅法に広い緑色の絨毯が見えたんです。

 もしかして、あれが世に聞く青木が原樹海!?始めて見ましたが想像以上でした。何たって、富士山というとんでもない奥行きに勝るほどの森だったんですから。

 昔の人がこの有様を樹“海”と呼んだわけもわかりました。何時か挑戦しようとは思っていましたが、今度は本気(マジ)で足を踏み入れたくなりました。できればガイド無しで(笑)

 屋久島に行けなかった反動が、ここに来ている模様です(笑)

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 現在、リニューアル中です。やっとトップページが整ってきました。・・・この調子で、夏休み中に終わるだろうか(^^;;)

継接ぎ

2003年8月9日
 踊る大捜査線THE MOVIE2を見てきました。最近の話題であるだけあって、面白かったです。

 しかし、面白かったんだけど・・・なんだろうか・・・。映画とての質は、別に申し分なかったんだけど、何か20%くらい、物足りなかった気がする。

 おそらくそれは、話が全て予告の継接ぎだった所為だと思う。テレビを見ていると、映画の予告がよくあるんだが、踊る〜は特に話題作だけあって、何度も見せ付けられた。

 その予告が数秒程度のものならまだしも、云十秒に渡るほどであったから、名場面をほとんど見てしまったわけだ。(だって、予告は名場面でなきゃつまらない)

 勿論、話の核心は予告では入っていなかった。しかし、核心以外の場面は全て予告に入っており、映画はその名場面と名場面の間を埋めた・・・継接ぎが完全になっただけのことだったのだ。(いわゆるネタバレ)

 これじゃぁ、どんなに映画でも、話の筋道が大体予想できてしまってるんだから、楽しめるわけがない。

 最近の予告CMは何だか行き過ぎている気がする。名場面を盛り込んで、視聴者を行かせようとするのがCMだが、全ての名場面を盛り込んでその“間間がどうなっているのか”を期待させるようなCMが最近多くある気がする。

 つまり、映画の盛り上がりを見に行くのではなく、映画の盛り上がりへの過程を、我々は見に行くようになっているのだ。

 期待させる以上の予告は、本編を詰まらなくする。

台風10号

2003年8月8日
 予想はしていたけど、やっぱり欠航かぁ・・・自然は何よりも非情です(T_T)

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 今日は登校日でした。欠航ということで、学校へ行ったのだけれど、別に何があったわけでもない。ただ皆が声を交わして、「おはよう」⇒「さようなら」これだけ。

 夏休みの登校日って何のためにあるんだろう・・・。

屋久島

2003年8月7日
 明日から月曜日まで、縄文杉で有名な屋久島へ行ってきます。屋久杉の雨林と、白谷雲水峡を散策してくる予定です。

 ・・・でも、どうやら今夜台風が屋久島を通過する予定なんですよね。旅行中は直撃を免れて、台風一過となればそれでいいんですけど、飛行機が無事に飛ぶかどうか・・・。

 いまさら汲々言っています(^^;;)

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 先日まで、名大(というと、外の人には明治大学?と言われますね・・・名古屋大学です)の高校生対象の夏季セミナーにいろいろと参加してきました。

 やっぱり、環境が違うと疲れますねぇ。夏休みだというのに夏休みらしい生活(←一日中ダラダラしているものだと勘違いしてます^^;)が中々できません。

 まぁ、悪い事ではないけれど。

文殊の知恵

2003年7月31日
 ―――2人が力を合わせれば、1+1は3にでも4にでもあるんだ!

 ・・・・・・なーんてフレーズがよくありますよね。

 別に例えるのは悪くないんだけど、専門用語(足し算は一応算数・数学の範疇)を使うからには、その意味を正しく使ってほしいものである。

 『かごの中に饅頭が1個入っている。もう1個加えたら、かごの中には饅頭が何個入っていることになるでしょう?』

 これは、1+1=2だ。それでは、

 『貴方はイチゴが2個詰まっているイチゴ饅頭を食べた。もう1個同じ饅頭を食べたら、貴方はイチゴを何個食べたことになるでしょう。』

 これは、2+2=4だ。イチゴ饅頭が2個だから、1+1=4なんて意味不明な計算をやる者はいないだろう。

 しかし、この論外な計算を、冒頭のフレーズでは扱っているのだ。理論的にフレーズを書き直してみると、

 ある特定の2人が力を合わせたときの、その個人の能力を1,2とすれば、その総計の力は3である。

 左辺の1+1というのは人数、右辺の3や4は能力値(?)だ。左辺と右辺では対象と単位が違うのである。

 これは算数の四則で許された事ではない。その決まりごとを、この例えではノウノウとやってのけているのである。

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 余談だけど、イチゴ饅頭って美味しいの?

風物詩

2003年7月30日
 ふと将来の進路について迷った。今僕が住んでいる場所は、中京工業地帯と云われるように、日本の(地理上の)中心である。つまり、そこに留まるも良し、東に上って関東圏に行くも良し、西に下って関西圏に行くも良し。いっそ、更にその先、北と南に行ってもいいのだが、それは一先ず後回しとしよう。

 (若し、大学に受かったとしたら、)東京に行くか京都に行くか。ふと、迷ったのである。

 きっかけは、ある夏の日の朝のことだった・・・・・・って、今朝のことなんだけれど。

 毎朝のように、ヒヨドリのけたたましい鳴き声に起こされた。(我が家のウズラにニワトリよろしく起こしてもらいたいのだが、メスだから相成らない^^;)

 しかし、それ以上にウルサい喧騒があった。シャワシャワシャワ・・・というクマゼミの鳴き声である。ハルゼミとニイニイゼミの後釜として、アブラゼミとともに現れたセミだ。

 世の中にはこの騒音を嫌う人たちがいるそうだが、自動車やら電車やらの機械的な騒音よりはずっと心地よいと僕は思う。

 毎度のようにデジカメを持ってクマゼミの写真を撮らえようとしたんだけれど・・・高い位置にいて撮れない。今度タモでも持って木の下に止めて撮ろうと決意した。・・・ええ、ヤラセですよ(^^;)

 そこで、予習としてセミの図鑑を開いてみた。すると、驚くべき記述を発見したのである。

 『クマゼミは本州以南で見られるセミである』

 ・・・はい?

 クマゼミってアブラゼミとともにポピュラーなセミじゃなかったんですか?

 図鑑の以南以北ってのは大抵東京を境にしているわけだから、即ち東京でクマゼミは見られないと?そう云いたいわけだね。

 クマゼミは子供の頃から付き合っている昆虫だ。彼らがいない場所なんかに上京なんかしてたまるか!

 てなわけで、進路について迷っているのである(笑)

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 この話には続きがある。

 クマゼミの次のページに、ミンミンゼミについて書かれていた。

 『ミンミンゼミは本州以北で見られるセミである』

 つまり、クマゼミが中京や関西などでポピュラーであるのに対して、ミンミンゼミは東京や関東などではポピュラーなセミなのであるらしい。

 子供の頃、ミンミンゼミを何で見かけないのかなぁ・・・という疑問があったがやっと解決した。

 ミンミンゼミや上京しないと見られない。この事実にちょっとだけ希望が湧いた。僕はミンミンゼミと交流したことがない。

 そんなわけで、クマを選ぶかミンミンを選ぶか、やっぱり進路について深く迷っているのである(笑)

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 本当に、クマゼミが東京にいなくて、またミンミンゼミが東京にいるのか、東京在住の方是非、教えてください!図鑑は信用できないんで(^^;)

 つーか、関西や九州の方にクマゼミが本当にいるのか心配になってきた。

胡蝶の夢

2003年7月26日
 てなわけで帰ってきました。・・・昨日(爆)

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 最近リアルについて考えさせることがある。インターネットをやっていると、ネット世界の事をバーチャルなどと呼ぶことがあるが、実際のところリアルとバーチャルの違いとはなんだろう。

 胡蝶の夢という話がある。昔の中国、戦国時代の思想家荘子が、蝶になってお花畑を飛び回り遊んだという夢を見た。目覚めて彼はふと疑問に思った。果たして今人間としての自分は本当の自分なのか。本当の自分とは先ほどまでの“夢”にいた蝶なのではないのか。

 夢と現の境界がはっきりしないということを言う故事である。

 もっとも、僕ははっきりしているとは思うが。今この文章を書いている時点での自分にとって、夢を見始めるときと夢を見終わるときの状況は明らかに違う。このメカニズムは可逆的なものではない。

 寝るときは、寝床に就こうという意思がある。しかし、夢から覚めるときは目覚ましに不意に中断されるとか、夢を見飽きて突然現実に戻されるとか。境界がボンヤリしているような夢はそう見ない。

 さて、夢と現・・・転じてバーチャルとリアルについて胡蝶の夢を見てみよう。リアルにとってのリアルはリアルである。リアルにとってのバーチャルはバーチャルである。

 では、バーチャルではどうか。バーチャルのリアルはバーチャルである。バーチャルにとってのバーチャルは・・・・・・そう、リアルである。

 おかしくはないか?リアルにとってのリアルは変わらずリアルなのに、バーチャルにとってのバーチャルはリアルと変わってしまうのである。

 バーチャルとリアルは別世界のように思えるが、実は全然対等な存在ではないのだ。反対語、つまり対義語として扱える言葉ではないのである。

 こういうのは結構多い。数学の掛け算でも、プラスにプラスを掛けてもプラスだが、マイナスにマイナスを掛けるとプラスである。プラスとマイナスは対等ではない。

 これの本質は肯定と否定・・・有るか無いかなのだ。有ることと無いのは対義語のように思えるが、全然対等な関係ではないのである。プラスをマイナスに、マイナスをプラスに摩り替えることは不可能なのだ。

 だから、バーチャル世界にもう1つの人格を作って、胡蝶の夢を見てる者は実に愚かだろう。夢と現は全く別ものなのだから。

しばしの休日

2003年7月21日
 明日から4日間ほど、木曽あたりに自然観察へ行ってきます。

 だから日記は更新できません。・・・って今の今までもその位、ざらにサボっていますが(^^;)

 ↓の意味不明な文章はその自然観察の影響です。愚痴る前に愚痴っておこう、ってわけで(笑)

慈悲

2003年7月19日
 昆虫採集というものが僕は気に入らない。正確には、虫を採集して標本に仕立て上げることがだ。

 その理由を、とりあえず客観的(或いは理論的)な事項として列挙してみよう。

 (1)虫を無駄に殺すと個体数が減少する
 (2)人が自然に踏み込むことで、自然の秩序が破壊される
 (3)採集する昆虫の多くは貴重か珍重なもの、種としての個体数が減少したら絶滅に繋がる

 それに対して反論も数多い。

 (4)人が少々捕まえたくらいで虫の数は減少しない
 (5)自然の秩序を破壊しないように気をつければ、採集したって構わない
 (6)貴重や珍重なものを採集しないと、研究に扱えない

 (2)と(5)は、採る者のマナーに関わるものだから、どちらも正しいことであろう。願わくば(5)が正々堂々と云える採集者のみが自然に出てほしいものだ。

 (1)と(4)も、どちらも正しい。虫の繁殖力は馬鹿ではない。ゴキブリ、ハエ、カなど、害虫と呼ばれるものは駆除されても駆除されても、絶滅することはない。(最近ギンバエが減ってきているようではあるが)

 (1)の反論は、(3)と(6)の種の存続問題へ繋がる。しかし、僕は思うのである。“種”という存在がこの世界にそれほどまでに必要なものだろろうか。自然界が多様である必要性などはない。単に面白みがないだけだ。

 こうなると、理論的には肯定派に旗があがってしまいそうだ。更に、肯定派の(1)への反論は拡大する。

 (7)森林伐採やら河川埋立やらで、採集以上の多くの虫たちが死んでいる。

 この反論は正しくない。議論の摩り替えだからだ。

 人にたとえてみよう。大国が武器や権力を以って弱小国家を攻撃した。戦果は明確。弱小国家の多くの罪無き人々が殺された。日常茶飯事にあるようなこと・・・かもしれない。

 “戦争で多くの人々が死んでるんだ。俺が一人や二人殺したって変わるものか”

 (8) (7)の反論を許したらこんな馬鹿げたことを言い出す奴が現れてしまう

 だから、虫を殺してはいけない。

 しかし、(8)の反論にも不備がある。肯定派は更にこう反論できるだろう。

 (9)そもそも人と虫を同一視することが間違っている

 これは仏教の万物平等を信仰するかどうかで違ってくる解釈だ。人と虫とでは、構造を始め生育器官、活動、知能など全然違うこれが、平等と言えようか。

 そんな感じで、生物は皆平等でないと断言できるのならば、(9)の反論は通るだろう。

 さて、いろいろ議論を探してみたが、どれも僕の考えとは違う。

 (6)の議論に戻ろう。昆虫採集をしないと、研究ができない、というものだ。そう、標本の超目標には“研究”というものが待っているのである。

 しかし、“研究”とは必要不可欠なことなのか。虫を虐殺しておきながら、その虫の“生き様”を研究しているなんておかしくはないか。果たして、虫を虐殺してまで得る研究に、何の価値があるのか?そもそも研究とは何のためにやるのか。

 どうも、世の中には“研究”を“義務”だと感じている学者がいるようだ。実際は、研究をすることで、人生の立派な偉業を果たしたという、優越感にひたっているだけではないか。

 研究をやる理由、それは知的好奇心だ。好奇心がために、虫を大量虐殺する。何と愚かだろう。

 とはいえ、この理論は“万物平等”の下に成り立っている。虫は所詮ピラミッドの下にいる程度のものだ。知的好奇心を満たすにはちょうど良い基盤だ・・・などと思っている人間はどうしようもない。

 結局、水掛け論にこのテーマは終わる。理屈の上では“殺してもいい”し、“殺してはいけない”のだ。

 となると、理屈の先にあるものが必要だろう。虫を殺すなんて可哀想だ。こう思う心が何より大切だ。

 昆虫標本の中にいる虫たちは、全く生き生きとしていない。当たり前だ、殺されたのだから。一方、自然の中にいる昆虫はとても生き生きとしている。当たり前だ、いるべき場所にいるのだから。

 虫にピンを刺して喜んでいる輩に慈しみという感情が見られない。何とさもしいことであろう。

全然〜ない

2003年7月15日
 『全然大丈夫だって・・・』

 とある友人がそういった。そのときは自分も普通に頷いていたが、後々そのことについて自己嫌悪に陥ってしまった。

 “全然”という言葉は、打消し、あるいは否定的な語に接続して成り立つ副詞だ。『全然〜ない』が正しい文法であり、『全然〜ある』は極めて俗っぽい言い方で、文法上間違っている。

 『全然大丈夫じゃねぇよ』
 『全然不可能だよ ⇒ 全然可能でないよ』

 なら正しいのだ。

 『全然大丈夫だよ』
 『全然可能だよ』

 なんてのは、間違っている。それを特に知っていたから、一昔前までは、この誤用された日本語を聞くと頭に蟠りを感じたものである。

 ところが。つい先日のこと、冒頭のような発言を聞いて、違和感を感じずすんなりと受け入れてしまった。

 それどころか、『全然〜ない』という構文に違和感さえ感じるようになってしまった。

 そういえば、例えば『煮詰まる』という言葉も、本来なら物事が解決寸前、というところで使われるはずなのに、世の中では物事が袋小路に行き詰った、という使い方をされている。

 これとおんなじで、いつしか『全然』という言葉も将来肯定的な意味が強くなってしまうんじゃないかと最近心配する。

 大辞林では、(1)に全然〜ない、(2)に悉く、(3)で全然〜ある(俗)といった風に並べられているが、そのうちこの(1)と(3)が本末転倒するような事態に陥ってしまわないだろうか。

 でも、日本語を使うのは我々日本人なのだから、日本人がそれで定着するのなら全然構わないような気もしない。

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 *そういえば、【〜】を『ホニャララ』と読む風潮があるようだが、正しいんかね。

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