異常者

2003年7月13日
>長崎の中1生、「夢想殺人」で精神鑑定へ

 という見出しが新聞にあった。

 毎度のように思うことだが、大人だろうがガキだろうが、正常な状態で人が殺せるんですか?

 これだから、弁護士というのは気に入らない。下らない理由で論議をはぐらかす。

 それとも何か?そんな戯けた精神異常者のために、無関係な幼児の未来が潰されたと?

 国として、そんな危険人物を公に堂々と歩かせていいんですか?

 私の心内ではそんな奴終身刑か死刑決定です。

プレッシャー

2003年7月12日
 他の学校がどうなっているかは知りませんが、我が校では試験が週にまたがって続く。つまり、この土日も、

 試験終わったぁー ばんざーい!

 なんて気楽に生活することはできず、机に向かって惨めに過ごさなくてはならないのである。(・・・あれ?じゃぁ何で今タイプしているのだろう(笑)

 ただ、一日中精神力が持つことなんて有り得ない。少なくとも、僕にとっては、数時間集中して勉強したなんてことは到底無理だ。(そんなことできたのは小学生の頃だろうか(爆)

 だから、一日の半分は勉強しないで横になってグウタラしているわけだ。

 ならば、昼寝なんかしてないで、その時間を趣味かなんかに費やしたらどうか?

 ところが、残念なことに、頭の中に“試験勉強しなくては”というプレッシャーがあるがために、実行に移せないのである。

 しかし、その時間を実際に勉強に使っているわけではない。“試験”という存在があるがゆえに、勉強も趣味もさせてもらえない、無駄な時間が過ぎていくのである。

 嗚呼、勿体無い。

 これまで、試験のために貴重な人生が失われたことか。(オーバーな^^;)後悔するくらいなら、あの時の時間を有意義に使っていればよかったのに。

 ドラえもんの道具にありましたよね?暇な時間を貯めておくってやつ。名前を忘れたけれど、あれが滅茶苦茶欲しい。

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 土日にまたがっているといっても、試験は明日だけなんだよね。でその後の2日は試験休みで、次の登校で終業式、そのまま海の日で夏休みって展開。

 これはおそらく学生のためへの配慮ではない。いや、学生にとっても休みがあることは嬉しいし、土日休みに試験勉強ができるってのはいいことだ。

 だけれども、これの本当の意義は教師が楽できることにあると思う。つまり、この土日に採点して、次の火水は採点休みだ、と。

 試験日を早めて、土曜日以降は終業式までずっとテスト休みにしてしまえばいいと思うのだが、それでは休みがGW並にあるので世間体にまずいだろう。(というより生徒の親に叱られるのだろうな)

 だからこそ、休みに挟まれた月曜日という存在を作って、その長期休みをゴマかしてしまうのだ。

 先生たちも中々セコいことするではないか、と思ってしまうが、それ程までに試験の採点って大変なんだなぁ、と生徒の一人として哀れむ思いである。

罪の天秤

2003年7月11日
 中学生が子供をビルから突き落としたことで波紋を呼んでいますね。突き落としただけで殺したつもりはなかったのでしょうけれど。“落としたらどうなるのか”。その先に待つ事を予想できなければ実践し得ないのだから。

 ニュースによれば、学校でもトップクラスの成績だったらしいけれど、人間としては単なる馬鹿ですね。

 ところで、ふと思うのだけれど、人間としてでなく生物としてならどうだろう。“殺人なんて生き物の中で人間しかやらない”なんて詭弁を時々聞くけれど、実際のところ動物の世界でよく見られることらしい。ストレスの溜まっているサルが子供に当たった、とかよく聞く。

 人間も生物の一部なのだから、こんなことがあってもおかしくはない。だから、私は犯罪者を生物として許すことができる。

 とはいえ、人間として、正確には人間社会として許されはしない。人間という種がある以上、他の種と同一視するのは愚か者のやることだから。(巷の詭弁も同様ですね)

 僕は罪を“糧”によって判断したいと思う。つまり、その罪によって、罪を犯すに値するほどの価値がある糧があったのか。

 その少年が、罪を犯すことによって“犯罪は後悔するものだから他人だけでなく自分にとっても有益なことではない”という真理を手に入れたとしたら、それは糧となるだろう。

 しかし、その糧に値するほどの犠牲を伴ったかといえば、そんなわけがない。“人殺しはいけない”などという真理は考えるのも馬鹿らしいほど当たり前のことであり、人命を掛けてまで得るほどのたいそれたものではない。

 秤にかければ、少年の罪と子供の命は、間違いなく後者にぐんと傾くだろう。その秤を均し、逆に前者の方にぐんと傾けるために、少年は罰を受けて反省しなくてはならない。

 しかし、罰によって秤は均されるだろうか。私怨や復讐を伴った殺人者ならば、可能ではあろうが、単なる愉快犯にそんなことは不可能だろう。

 そこで思うのだ。そんなことならいっそ天秤自体を無くしてしまえばいい。罪人が存在するという事実さえなくしてしまえば。

 死刑廃止が盛んに唱えられているが、そのような社会に不利益な天秤を無くすことに、死刑は重要な意味を持つのではないか。

 その少年が、二度と表舞台に出ないことを望む。

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 そんな馬鹿が少年が出ないために、金八先生の新シリーズを放映するべきだと思うがどうだろう(笑)
 英語のリスニングのCDを聞いてて思う。

 俺たちゃ日本人だぞ。

 そりゃあね、高校生にもなったんだから、スローモーションをかけたみたいなしゃべり方で“あい あむ あ ぼぉい”はまずいと思うよ。

 でも、“あまぼぉ”としか聞こえないってのもちと問題なのでは。

 一応日本人の英語見習いを対象としているんだから、流暢な(に近い)英語で話されたら何のことだか理解できるわけがない。

 先生にクレームしたら、『これが英語人のしゃべり方だ』って云われたけど、俺たちゃ日本人だぞ。

 妙なイントネーションで日本語を話す外国人を見たことないか?それと同様で日本人も真に近い英語を話せるわけがないんだ。

 それなのに、見習いどころか初心者の域の我々に、そんなCDを売りつけるなんて暴利だ。聞き取れるわけがない!

 日本人が必死に英語を話そうとしてるんだから、相手側もそれなりに妥協をしてくれたっていいんじゃないかな。

 我々が“あいどんとあんだぁすたんど”であって、相手が“あいどんとあんだぁすたんど”だったら本末転倒だよ。

 英語の副教材でテスト勉強をしててふと思った。

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 愚痴なので溜口で(笑)

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 夏休みにサイト改革をやるとか、いつかどこかで言っていた気がしますが、無理かもしれません(^^;)

 スケジュールを確認したら結構忙しくて。

 夏休みって長いようで意外に身近いんだよなぁ・・・・・・なんて云ったら社会人の方々に起こられますかね(汗)

 まぁこれも青春さ、・・・禍々しい。

天変地異

2003年7月9日

 数万年前の恐怖―――春夏秋冬

 数千年前の恐怖―――天候不順

 数百年前の恐怖―――大地鳴動

 昨今の恐怖―――人災

 近未来の恐怖―――小惑星衝突

 数千年後の恐怖―――太陽系崩壊

 数万年後の恐怖―――銀河系消滅

 数億年後の恐怖―――宇宙解体


 近頃の恐怖―――勉学


 何ちゃって。

テスト前

2003年7月5日

 ・・・・・・疲れた。
 

命の芸術

2003年7月3日
 ⇒http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0305/030520.html

 ミキサーに入った観賞魚、とでも云おうか。そんな芸術があるらしい。

 ミキサーの中で何も知らずに泳ぐ金魚。目の前にあるスイッチを押せば、金魚はミンチになってしまう。そんな背中合わせの恐怖を芸術にしたのだという。

 ・・・どこが芸術だ?

 これを作った人間はセンスの欠片もないね。見て考えられることは、金魚がただ不憫で可愛そう。こんな馬鹿な人間の為に弄ばれるなんて。

 よく、生物殺しの論理に豚や牛を持ち込むことがある。しかし、それは“生物が生きるための糧”となっているから全然問題ではないのだと思う。(だから頂きます、と感謝する)

 しかし、単に人生の余興として扱われた命は糧でもなんでもない。そいつに無駄にされただけだ。

 不必要に殺すのは勿体無い。

 それを芸術などと謳う馬鹿は小学校で道徳を学びなおしてくるべきだろう。芸術にもマナーというものがある。そいつはアーティストとして認められない。

 そんな似非アーティストは、自分がミキサーに入って芸術に一矢報いるべきであろう。勿論、そんなことが馬鹿にできるわけがないだろうが。
 日記のことではなく、ホームページ“クリの部屋”のことです。(プロフィールの家マークから行けます)日記より一足遅れて10000HITを突破しました。(ログによれば一昨日の朝らしい。誰かは不明^^;;)

 これも皆様のお陰。今までありがとうございました。これからもクリの部屋をよろしくお願いします(^o^)

 (実はリニューアルを目論んでいたんだけど、学校が忙しくて無理でした。夏休みに入るまで待ってください^^;)

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 占い感覚で、我々の精神年齢を鑑定されることがある。(媒体は本やインターネットなど様々)

 大抵の人は、そこで返ってくる結果に驚くであろう。『俺はこんなにも幼稚だったのか』とか『儂の心はここまで老いていたのか』などなど。

 そこで、ふと思うのである。日本中の人間に精神年齢鑑定をさせ、各世代ごとの平均を取ったとき、平均精神年齢はその世代の肉体年齢に一致するのだろうか。

 精神年齢の定義を考えてみると、一致しなければおかしいはずである。精神年齢とは、その世代がそれ相応の精神を持ち得るときの年齢、と解釈すべきで、実際そう定義されているはずだ。

 しかし、どうやら、肉体年齢と精神年齢は、一致しないのが通例らしい。それが一致している人間など数少ないようだ。誰しもが自分の肉体年齢と精神年齢のギャップに驚愕している。

 これは矛盾ではないか。

 つまり、精神年齢として定義されている“精神”というのは、社会的に有用性がある理想に過ぎないのだ。

 精神年齢なんてものは、所詮は“精神的存在”としての人間が、身勝手に作り上げた偶像に過ぎないのである。

 大体アブノーマルな人間が多いこの世の中、精神年齢なんてものは無意味なのである。

役不足

2003年6月20日
【「役不足」「確信犯」、意味理解は2割前後 文化庁調査】

 「役不足」「確信犯」「流れに棹(さお)さす」といった語句の意味を正しく理解している人は20%前後にとどまることが、文化庁が19日公表した「国語に関する世論調査」からわかった。調査では、言葉の乱れについての意識、カタカナ語の意味をどの程度知っているかも聞いている。

 95年度から毎年実施している。今回は昨年11〜12月に16歳以上の2200人(回収率73.3%)が面接形式で回答した。

(朝日新聞 06/19 22:10)

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200306190349.html

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 近頃の日本人の語彙不足を懸念するニュース。もっとも、昔の人の日本人は、語彙が豊富だったのか、と考えると少々疑問ではありますが。(国語力は昔よりもいいような気がするけれど?)

 『役不足』『確信犯』『流れに棹さす』『閑話休題』などの微妙な単語が出題されたらしい。閑話休題は「さて――」を格好つけていうときに使うので、わかるけれど、『役不足』の意味が私もわかっていなかったようだ。

 つまり、“役目が難しすぎて、自分には到底為し得ない”という意味で取り違えていた。正しくは“役目が軽すぎる”だという。

 なるほど、少し考えればわかることだ。“役”が不足しているんだから、力量が有り余る、ってわけだ。

 しかし、日本人の過半数が意味を取り違えていたという。これはすでに、歴史の中でその意味が定着した、ということではないか。

 つまり、通常の会話では、取り違えた意味の方が、通じてしまうことが多いということだ。

 だから、これは誤用というよりも、役不足という言葉は、『自分の力量には到底及ばない(いい意味でも、悪い意味でも)』という新解釈が日本では創られてしまった、ということではないのか

 昔の人が作った日本語を、今の人が作り直してはいけない、という謂れはどこにもないはずである。

 それとも、現代人のセンスは、日本語に役不足だ、とでもいいたいのだろうか?

異文化

2003年6月19日
 書道。多々ある教育の中でも、特に納得できないカリキュラムの1つだ。毛筆がいくら達者に書けても、現代人として必要不可欠なものとは到底思えない(←今は活字文化だ)。しかも、ペン字(硬筆)ならまだわかるが、教わるのは決まって毛筆だけだ。

 また、今までの経験から言って、書道は書けば書くほど下手になる。始め下手に書くと、自己嫌悪から次の字はもっと下手になる。この相乗効果に、集中力が欠けると、最後の紙の字は見るも無惨なものとなるのだ。もちろん、始め上手に書きさえすれば、どんどん上達することは言うまでもないが・・・。

 でも、そんなに毛筆が嫌いというわけじゃないから、そう構わないのだけれど。

 毛筆と墨によって描かれる芸術。日本人の文化とは素晴らしいものだと思う。書道だけでなく、茶道や華道、武道などもそうだ。“道”という名のついた体系は感心するものばかりである。

 で、ふと思うのだ。だからこそ、日本を異文化として学びたかった。日本人は、他人に流されやすい性格だ。過去には大陸に従属的であったし、今ではアメリカに翻弄され、学生は英語を学ばされる。

 ハーバードやマサチューセッツなどの大学は、決まって英語である。科学の展望には、英語が必要不可欠なのだ。科学の発明・発見者の名前で日本人の名は少ないだろう?その上日本は技術だけはトップクラスだ。これは何を意味するか?日本は英語圏に従属的で、英語という障害があるためにその上に行けない、ということだ。つまり、英語圏の人間は有利なのだ。

 英語圏の人間でありたかった。そして、素晴らしい文化を持つ日本を、異文化として知りたかった。

 つくづくそう思うのである。

お縄に自由を

2003年6月17日
 受験生必携の図書。英単語帳。僕もK塾が出版している単語帳を買って勉強しているんですが、これが中々つらい。100語だけでも心許無いのに、それが数百、千なんて・・・。

 だって、僕は単語を覚えるのが苦手なんだ・・・・・・と言ったら反則ですね。己が記憶しようとしてないだけじゃ、って言下されるのがオチか。

 日本人もヨーロッパみたいに積極的に海外進出して、世界中を日本語で漬けてしまえばよかったものを。イギリスだって島国なんだぞ!太平洋さえ横断すれば新大陸に行けるじゃないか!

 ところで、英単語などは通学中の電車内で、本を片手に覚えるといいのだという。なるほど、暇な時間が有効利用できるというわけだ。

 しかし、僕は自転車通学なのである。電車賃は浮くし、すぐに登下校できるので時間も儲かっている。だけれど、その余った時間を記憶に回そうとしない。メンドくさいから。

 一方、想像するだに、電車通学中は何もできないから、単語を覚えるぐらいしかできない。だから、逆に覚えることができてしまう。

 つまり、束縛されている方が、逆に有利なのだ!!!よく考えれば、自習も学校でやる方が身につきますしね。

 何で、自転車通学なんて選んでしまったんだろう・・・とふと後悔してしまった。

 どなたかよい記憶法ご存知じゃありませんか?

ポアンカレ予想

2003年6月14日
 ついに、七大ミレニアム問題解決への道がベールを脱いだ。ロシアの数学者グリゴリー・ペレリマン博士が、四次元の表面の三次元性を示した“ポアンカレ予想”を解いてしまったのだと言う。

 ポアンカレ予想は要するに、立体(三次元)の表面が平面(二次元)が曲がったものであるように、四次元の表面は立体で表現されるかどうか、ってこと。(微妙に違うけど)⇒http://www.claymath.org/Millennium_Prize_Problems/Poincare_Conjecture/

 何百年前から謎とされていた、フェルマーの最終定理が解決されたのが数年前。そろそろミレニアム問題の中でも特に純粋(というより判りやすい)なこの予想が解かれないかと心配していたら、やはり解かれてしまった。

 将来僕が解いてやろうと思っていたのに(爆)

 まぁ、でも近代数学の展望が、また見えてきた。この素晴らしい答え(理解してませんけど)に純粋に拍手を。

 (証明に穴がありました、なんてオチがないよう祈ります・・・(笑)

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【難問「ポアンカレ予想」を証明】

 九十九年前に出された数学の難問で、解決に百万ドル(約一億二千万円)の賞金が懸かっている「ポアンカレ予想」をロシア人研究者が証明したと発表し、欧米の複数の数学者グループによる検証でも「正解」とみられることが明らかになった。

 ポアンカレ予想はフランスの天才数学者アンリ・ポアンカレ(一八五四−一九一二年)が出題し、現代数学発展の原動力ともなった幾何学の問題。

 証明を宣言したのはロシア・サンクトペテルブルクにあるステクロフ数学研究所のグリゴリー・ペレリマン博士。

 昨年秋から今年にかけ、一連の論文にまとめた。

 同博士は四月に米ニューヨーク州立大などが開いた研究集会に招かれ、証明方法を解説。検証作業に取り組む同大のマイケル・アンダーソン教授は「検証が終わるまでまだ時間はかかるが、現時点で証明に深刻な問題点は見つかっていない。恐らく解決したと思う」と話している。

 ポアンカレ予想は米国の財団クレイ数学協会が賞金百万ドルを懸けた七つの「ミレニアム問題」の一つ。同協会は論文の数学誌への掲載から二年後に授賞の是非を検討する。証明が認められれば、初の賞金獲得となる。

 同予想は、二次元空間で存在するある種の性質が、曲がった三次元空間「三次元多様体」にも備わっていることの証明を求めた問題。

 ペレリマン博士は三次元多様体の各点ごとに、いろいろな向きの曲率を平均化した「リッチ曲率」を導入し、それに関する方程式を解くことで証明したという。

(中日新聞よりhttp://www.chunichi.co.jp/00/sya/20030614/eve_____sya_____009.shtml

平和と差別

2003年6月8日
 椋鳥の喧騒。どうしてこんなに騒いでいるんだろう、と辺りを見回してみれば、何やら人様の団体が行進している。

 集団の先頭にいる女性が「核兵器の無い世界を――!!!」云々と力弁している。後ろの方で掲げられている旗には“平和”という単語が。なるほど、彼女らは世界平和を訴えているのか。

 我々一市民がどれだけ奮起したって、世界が平和になるわけがないのに、と冷めたことを僕は思ってしまうのだけれど。

 まぁ、しかし平和を祈ることは素晴らしいことであるので、頑張ってください、と背を向けた。そのとき。

 『今回のイラク戦争で多くの人々が殺されました。その犠牲者の大半は子供と女性です!』

 などという声が。

 おいおい、核兵器の廃止を語っている奴がそんなこと言っていいのか。

 犠牲者が子供である、ということは確かに問題であろう。未来有る子供たちの命を、未来無き(と云ったらまずいか^^;)大人たちが奪っていいわけが無い。

 しかし、女性が犠牲者であるのが問題、ということはどういうことか。未来有る子孫を作るからか?いや違う。“女性は無力”という先入観があるからだ。

 しかし、殺傷兵器や核の前では、無抵抗だろうがなんだろうが、男性でも無力なのではないだろうか。個人としての力が強くても、降ってくる爆弾を拳で破壊できるか?これは明らかに男性差別ではないのだろうか。

 レディーファーストは多いに結構。しかし、若しこの団体の誰かが、世界平和に加えて“女性差別”を謳ったとしたら、それは平和を逆手に取った偽善だと思う。

恐怖と心臓

2003年6月5日
 てなわけで遊園地に行ってきました。我が校の貸切状態になるとは思っていませんでしたがやはり予想通り。他校の高校もちらほら遠足にやってきていました。皆考えることは一緒なわけか・・・・・・。

 まぁ、それでも休日よりは空いているらしく、遊園地の半分近くを陣取っていると思われる立ち並びスペースは閉鎖されていた。炎天下の下を並ばずに済んでよかったよかった。

 昨日みたく愚痴を言っててもしょうがないんで、ジェットコースターにでも乗って楽しもうかな、なんて思っていた矢先のこと。

 友人にバイキングに乗せられてギブアップ(爆)交通バスでも酔ってしまう僕にこれは辛かった・・・(泣)酔い覚ましにと乗った観覧車の高さにビクつくほど(笑)

 真理を獲得した。死と隣り合わせ(←例えば横断歩道を猛スピードで右折する原付と遭遇したときとか)でない、安全性の保たれた(←絶叫マシーンとはいっても死ぬことは無い)恐怖は、気持ち悪いだけだと。ゾクゾクしてこないもんね。

 (因みに、死の恐怖を味わいというわけじゃないので悪しからず。もともと恐怖を体験する必要なんてないと考えてますから^^;)

 このまま、高所恐怖症になってはまずいんで、ギネスブックにさえ載っている高さ約100メートルのスチルドラゴン(⇒ttp://www.nagashima-onsen.co.jp/data/e2_1_1.html#22)に乗ることに。ジェットコースターってやっぱりいいですね。昇るときの臨場感が堪らない。実は落下するときは一瞬なんであんまり怖くなかったりする。

 僕なりのジェットコースターの恐怖レベルを書けば、並んでいるとき>乗せられて待機しているとき>ゆっくり昇るとき>落ちるとき、でしょう。脈の鼓動のスピードをわざわざ測ってみました。

 意外なことに、恐怖の対象となっているコースターの自由落下って、心臓をビクつかせないです。つまり、肉体的には、『恐怖の直前が一番恐怖』というジレンマが発生するわけだ。

 実は、よくテレビで見るような、片手にビデオカメラを持ってコースターに乗る、っていう実験をしてみたかったんですが、最前列が取れなくて断念しました(^^;)。(あと落としたら危ないから)

 バイキングの酔いが醒めないんで今日はこの辺で。

遊園地

2003年6月4日
 明日は遠足にいかねばならない。(←義務)行き先は遊園地。何故・・・。

 ――遠足に行く場所は生徒の独断と偏見によって決められる。世の中民主主義の風潮が漂う中、当然クラスという小規模の社会も例外ではなく、初々しい高校生の多くは遊園地で遊びたいらしい。

 ガキどもめ!なんて憤る僕は、現代の高校生の感覚を持ち合わせていないらしい。

 そもそも遊園地なんて何が楽しいのだろう。高い金をボッタくられ(←この言葉の意味はわからないんですが^^;)、その上どっちが遊ばれているんだかわからない消極的な施設。

 そんなものに何の価値があろう。別にジェットコースターその他が嫌いなわけじゃない(むしろ好きかな)けど、もう1つ楽しめる要素に欠けていると思う。

 思うに、糧が得られないからだ。人間としての。他人が作った機械に遊ばれる感覚が許せないのだ。

 自然公園にでも行ってスポーツでもした方がよっぽど健全だと思うし、それがつまらないのなら動物園や水族館に行ったほうがマシだろう。知識という糧が得られるのだから。

 なんて愚痴を言っててもしょうがないから、物理学の実験でもやろうかな(笑)

 因みにある友人Aの発言。「男子校で遊園地に行って何が楽しいんだ(怒)」・・・・・・ご愁傷様。

箸の持ち方

2003年6月1日
 小さい頃の記憶。箸の持ち方、鉛筆の持ち方。正しく持ちなさいととやかく云われる。うるさいなぁ、これが僕の持ち方なんだ、文句云わないでくれ。

 ―――つくづく思う。それが本人にとって持ち易いのならそれでいいのではないか。昔からそう決まっているからといって、未来ある子供たちにそれを押し付けるのはどうかしてる。

 そもそも、箸や鉛筆の持ち方は何のために決まっているのか?それを理解している人は少ないんじゃないだろうか。

 私が思うに、その持ち方が一番持ち易く、書き易いからだ。万人にとって。だからこうした方がいいよ、と教えてあげることは問題ない。ただ、それよりも本人にとってより良い持ち方があったのなら、これ以上言及する必要はないんじゃないだろうか。

 箸や鉛筆だけではない。漢字の書き順だってそうだ。漢字検定などで、書き順を問うことがあるが、書き順は旧文部省が“それが一番綺麗に書ける”と勝手に定めたものだ。つまり、本人にとってそれ以上に美しく書く術があるのなら、書き順なんて考える必要などないのではないか。

 あなたは、“必”という字をどう書きますか?

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 Mysteryで“八俣大蛇の頭数”を公開しました。久々に数学ネタじゃありません。(算数が一部混じってますが(笑)

存在としての神

2003年5月30日
 神の存在というものを、多くの人々(広い意味で)は勘違いしていると思う。

 神話などに見るように、元々は『創造』のためとして神は人々に生み出された。これは人々が自らの存在に疑問を感じ、そのルーツを作り上げたがゆえである。

 神話の中で人間が増えていくと、創造の役割は必然性を失い、次第に人間界を見守る、つまり『秩序』のためとした神に変貌していく。

 更に、人々は生という苦労に疑問を感じ、“何か”にすがる様になる。そこで、宗教によって拡大解釈された、『救済』としての神が誕生した。

 神はこのように役割を歴史の中で都合よく与えられたのである。本来は『創造』であったのに、何時の間にか都合のいい『救済』と成り代わったのだ。

 だから、神を『救済』のために存在していると勘違いしてはいけない。「神も仏も無いのか」のフレーズは、単なる願望から生まれたエゴにすぎないのだから、救ってくれるわけがない。

携帯とデジカメ

2003年5月28日
 ⇒http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0526/kai26.htm

 この程度の画質じゃ、まだ私に携帯を買わせるほどじゃないなぁ。

 でも、これ以上“カメラ機能”が充実したらどうだろう・・・。今まで何度とシャッターチャンスを逃した(特に登下校中。珍しい野鳥が飛んでいたときとか)ことか、と悔しんでいる毎日だし。

 手を出してしまいそうだから、これ以上カメラの機能が向上しないで欲しい(笑)

 ところで、携帯って携帯電話か携帯端末のどっちの略なんですか?

統計的予測

2003年5月27日
 プレート外地震が、昨日三陸地方で起こったそうだ。タイプは違うとはいえ(予想される東海地震はプレート境界型地震)、愛知在住の私としては、何と無く危機感を感じてしまいます。

 ところで、東海地震が起きるといわれる訳。それは前回の東海地方の大震災から随分間隔が空いているということ。そのために、プレートが歪んでいる可能性が高い、なのだそうだ。

 他にも理由はあるんだろうが、実質的予感はそれだけだと思う。

 これまで何十年と起きていなかった、言い換えれば今後とも起きる可能性はこれまでと五十歩百歩。統計的予測から生まれたものに枝葉末節ついたものと考えてもいいのかもしれない。

 そう考えると、将来震災から逃れるべく、県外の大学を受けようと思っている自分が、仇となって逆に大災害に見舞われることもあるかもしれない。

 天災は忘れた頃にやってくる・・・警戒されていようがいなかろうが、用心に越したことは無いのだ、と考えると気が楽かもしれない。

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 ところで、宮城県沖地震も別途に予想されているんだから、今回の地震も予測し得たのでは・・・?もし、予知されていたのに政治的策略で知らされていなかったとしたら、東海地震のときももしかして・・・・・・・・・と考えると少し怖い。

ピノッキオの視野

2003年5月22日
 コンタクトレンズ。そんなものを目に入れるなんて、考えるだけで慄いてしまう。しかし、コンタクトを付けて、ドンブリを食すとどうなるのか、興味がないわけでもない(笑)

 眼に異物を入れるなんて、生理的に嫌だから、視力がこれ以上悪くならないようにと肝に命じている。

 とはいえ、日頃の生活が所以に、日常的に眼鏡を付けざるを得ない毎日を送っている。

 眼鏡。得てして鬱陶しい異物。眼鏡は普通遠近両用であるとはいえ、とてつもなく近いものには焦点が合わない。いや、この言い方には御幣がある。正確には、眼鏡と眼球との間の、補正を受けられない空白には焦点を合わすことが出来ない。つまり、その対象となるのは・・・眼鏡自身である。

 眼鏡を付けている方はわかると思うが、ものを見るとき眼鏡のフレームが視野に混ざるのである。慣れれば然程気にならないが、しかし気にすれば気にするほど邪魔に思われる代物だ。この空白が無いコンタクトレンズは羨ましい。

 ところで、眼鏡を付けていようがいなかろうが、必ずぼやける邪魔者がある。それは髪の毛と鼻だ。前髪は切れば何とかなるのだが、鼻は削ぎ落とす訳にはいかない。

 黒目を上方にでもやらない限り、必ずとして鼻は視界を妨げる。しかも、顔は均整のとれた左右対称の造詣であるから、鼻は目と目の間にあり、右目、あるいは左目のどちらかに傾いてぼやけてしまう。遠近感を出すが故に設けられた両目の存在が、仇となったのだ。

 さぞかし、鼻の高いと言われている外国人は大変だろうな、と考えてしまった。・・・・・・いや、それ以上に鼻の高く成り得る繰り人形のピノッキオなんか、視界が酷くなっているに違いない。

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