更新

2003年3月15日
 これまで愛用していたIBM-ThinkPad(因みにWin98)に見切りを付けて、VAIOHSシリーズを購入。

 ・・・惚れ惚れするほどの機能の素晴らしさ!CD-Rは勿論、DVD-R、DVD-RWの搭載、テレビ視聴も可(チューナーが無い所為で試してはいないが^^;)、快適な動画視聴、カメラまでついている。

 何をとっても以前までのThinkPadの比ではない。殆どのスペックは2、3倍以上になっているし、ハードディスクも何十倍とある。

 違うことはバージョンが98であることとXPであることだけ。

 実は、私はXPが“大嫌い”である。無駄な演出、センスの無い画面、ユーザーを無視して先走るシステム達・・・これでは、ハードディスクに“ゴミ”が溜まっていくのではないかと元低スペックユーザーとしては気が気ではない。

 大体クラシックバージョンに比べて“整理”がし難くなった、ってのは問題ではないか。構造を複雑にするし、マイミュージックなどのフォルダは勝手に生成するし。クラシックモードへの切り替えもあるがそれはほんの僅かな画面だけであるし。

 初心者にとってはその方が使いやすいだろうけど、機械は飽くまで人の補助であり、その処理を機械が勝手に行ってくれては困るのだ。

 そんなこんなでXPの使用に戸惑っているのだが、もう1つ文句がある。何だこの付属アプリケーションの数は!

 ペイントソフトからムービー編集ソフトまで何から何まで入っているのは良いが、多すぎる!しかも大半は使用しないであろうものばかり。お陰でいちいちソフトをチェックし、要らないものをアンインストールしなくてはならない。

 別にハードディスクは一杯あるのだから、取っておいてもいいのだが、しかしゴミを残しておくわけにはいかない。

 このゴミの分を値段から減らせばどんなに安くなるだろうか・・・買ったその日に使える、ってのも問題ですよ、各種メーカーさん。

 まぁ、そんなこんなで当分相棒の更新ができそうにない。この日記もWin98で書いている。

 次は自作に挑戦してみようか(^^;;)

鶴フラクタル

2003年3月14日
 昨日、TVチャンピオン(http://www.tv-tokyo.co.jp/tvchamp/)で折り紙王選手権なるものがやっていた。

 毎度思うんだがこの番組、少人数の評価で技術者を落としていくから勿体無い。大体、9点と10点に差なんてないだろ、って思ってしまう。バトルではなく作品の発表にするべきじゃないか。

 まぁ、愚痴は措いておいて、折り紙。云うまでもなく器用(だけ)が売りの日本人が生んだ傑作である。世界でも“origami”として親しまれているそうだから凄い。日本の文化なんてどうでもいい、なんて思ってる人も鶴の1つや2つ折れなきゃ日本人の国籍が廃るだろう。

 折り紙を使えば、ギリシアの三大作図問題の角の三等分問題や倍積問題が解けてしまうのだから素晴らしい。芸術だけじゃなく数学的にも価値がある。

 折り紙の技巧の1つに“千羽鶴”がある。といっても、一羽鶴を個々の折って紐で束ねるなんてちゃちなものじゃない。一枚の千代紙から何羽も作るのだ。(TVチャンピオンでははさみ不可としていたが、しかし千羽鶴ははさみを使わないと難しいだろう)

 鶴と鶴の連結部分は基本的に頭、尻尾(正確には風切羽だが)、翼の先っぽである。工夫を凝らせば腹の下や首の付け根などでもくっつけられるが、ここでは考えないことにしよう。

 更に連結された鶴の頭、尾、翼からもまた鶴を連結できる。この作業を繰り返すとどうなるだろう。実しやかに美しいフラクタルが完成する。

 千羽鶴というからには、できるだけ多くの鶴を繋げたい。それに、一羽の親鶴から分岐した子鶴は、できたら小さくしたいものだ。

 親鶴は子鶴の二倍の大きさとすれば、以外に場所を取らないだろう。フラクタルで重要な二分法の概念がそこにあるからだ。

 一度挑戦することをお勧めしたい。(できたら見せてくれ^_^)

在庫不十分

2003年3月13日
【「ハリー・ポッター」在庫に悲鳴の書店も…】

「ハリー・ポッター」第4巻の発売当日、ファンは書店に殺到した=14年10月23日、東京・新宿の書店

 昨年10月に発売され、不況にあえぐ出版業界の“救世主”となった「ハリー・ポッター」シリーズ第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット(上下)」(静山社、セット価3800円)。しかし、返品できないという特例的な契約のため、全国の書店にある第4巻の在庫は少なくとも約35万セットといい、過剰在庫を抱えて悲鳴を上げた書店が、他の出版社の書籍を返品するなど波紋を広げている。

 第4巻の販売方法は返品を認めない代わり、注文数を必ず書店に届ける買い切り制。初版は史上最高の230万セット。11月末の6刷までで350万セットが全国の書店に販売された。

 だが、年末から売り上げが落ち始めた。「注文数を完売し問題ない」という書店がある一方、追加注文し過ぎた書店は「3年でもさばききれない」など大量の在庫を抱え込む結果となった。

 在庫について、静山社は「約10%の35万セット」としているが、出版ニュース社の清田義昭社長ら「約20%の70万セット」と推定する業界関係者も多い。

 「第4巻が返品できないため、在庫スペースが少なくなり、他社の書籍を返品せざるを得なくなった」というのは埼玉県内の書店主。「昨年末から返品が増え始めたが、原因は第4巻」とみる出版社も複数ある。静山社は「販売推進のためのキャンペーンを検討している」と話している。(03/13 09:21)

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 ハリーポッター。面白いのは確かなんだけど、何でここまで人気があるんだろう・・・。ハリーポッターに負けず劣らずの本なんて世の中には一杯あるし、ここまでファンが多いってのは何か裏があるに違いない。(因みに私は1巻だけ読んで飽きた^^;)

 多分に(誇大)宣伝の賜物だとは思うけど、それが裏目に出たこの状況。

 初版は馬鹿みたいに売れるが、重版は決して売れない、のいい例ですね。やっぱり高いんだろうね、値段が。こういうのは内輪で廻し読みするのが常ですし、古本屋に出るのを待つか、あるいは文庫化まで我慢する、って人が一杯いるんでしょう。

 と、いうわけで過剰在庫ってのが真実かどうか、早速確かめに近所の書店へ行ってきました。

 ・・・・・・滅茶苦茶余ってるし。陳列棚を1段埋め尽くすハリーポッター。そして零れ落ちた残りの数冊はレジに。沢山のハリーポッターが人目につきやすいところに置いてあって、買ってくれ、の悲鳴が目に見えるよう。しかし、買おうとする人の気配は皆無。

 こりゃ、返品不可は酷でしょうね。特に馬鹿売れを狙って大量入荷した小規模書店なんか。値段高いし。

 何時、独占禁止法を破って“古本”名義で売り捌くれるときが来るか、恐ろしく感じつつ期待している。

幼児語

2003年3月12日
 道端に(違法)駐車されている自家用車の横で、母親が乳飲み子に話しかけていた。「ブーブー乗る?」

 “ブーブー”とは云うまでもなく“自動車”のことだ。他にも“そうでちゅねー”とか“いきまちょ”とか、決まって大の大人が子供に話しかけることがある。“大の大人”が、だ。傍から見れば実におぞましく気持ち悪い光景だ。何でこんな所謂“幼児語”を“大人”が使うのだろう?

 成長段階の幼児には、“サ行”や“タ行”などの発音がまだ難しいんだろう。それを引きずって“サセシスセソサソ”“タテチツテトタト”などの発声が儘ならない年増(幼児より年齢の高い人のこと^^;;)もよく見かける。

 従って、“サ行”や“タ行”などは濁音でも挟まないとマトモに喋れないのである。“ナ行”を濁らせて話す変人もいるが、まぁそれは無視するとして。

 第二に経験の少ない幼児は語彙に乏しい。だから、“車”よりも“ブーブー”と見たまんまで喋りやすい言葉の方が認識しやすいのだろう。

 だから、幼児にとっては“車”は“ブーブー”なんだから話しかけるときも“車”でなく“ブーブー”を使わなくてはならない。この点では大の大人が“幼児語”を使うのに何の問題はない。

 それでは第一の理由、発声できないがために言葉が濁る、は? 耳にすることと声に出すことは別の感覚だ。幼児が“でしゅ”と喋ったとしても、それは“です”を耳にして、“です”と話そうとしたのだから、語彙に“でしゅ”はない。だから、大の大人が“でしゅ”“ましゅ”などの言葉を話す必要ない。それどころか、幼児が“でしゅ”“ましゅ”を“言語”として覚えてしまう可能性も無いとはいえない。

 心理学のことはさっぱりわからないが、もしかして幼児は言語学習の時点で“でしゅ”“ましゅ”を耳にしているがために間違えて認識しているのではないだろうか。それが発声練習の妨げとなり、正しい言葉が喋ることができないのを歳を取っても引きずってしまうのではないだろうか。

 幼児語を喋る大の大人は実に滑稽な光景である。

髪の色

2003年3月11日
 小学生は、友達がハーフなどで髪の毛が茶色だったりすると茶化したりイジメたりする。中学生でも似たようなものだが、しかし高校生以上が髪の毛が黒でもなくても、全く変ではない。

 私は黒髪こそ日本人のある姿(色素が抜けてる程度なら構いやしないが)だ、と考えているから、髪を染めて喜んでいるワカモンのことが理解できない。(お前はジジイか^^;;)

 とはいえ、ファッションは“狂”を備えているので口出しはしないが。

 日本人の多くは黒髪だ。ところが、最近のコミックを読んでいると、その事実が間違っているかと思ってしまうほど黒い髪のキャラクターが少ない。時には黒い髪のキャラがいないほどだ。

 キャラクターの輝きを与えるには、身体的特徴を与えるといい。そんなとき、肌の色、瞳の色よりも自由に塗り替えられ、尚且つ目立つのが“髪の色”だから黒髪が少ないのも納得できないこともない。

 だから、コミックで青い髪の少年や赤い髪の少女を出して良いか悪いかはここでは問題にしない。問題にしたいのは青い髪や赤い髪のような、言葉は悪いが“異端”なキャラクターを、何故我々は“人”として普通に受け入れることができるのだろう。

 テレビなどで出てくる派手な兄ちゃん姉ちゃんは、大抵髪を染めている。黒髪の俳優ははっきり云って少ない。でも、多くは茶髪などで、真っ青な髪や真っ赤な髪のアイドルが登場することは少ない。しかし、時たまそんなのが登場するのは事実だ。

 私はそんなのを見て一度も格好いいなんて思ったことはない。例外なく“気持ち悪い”“こんなのを人間と呼んで相応しいのか”と考え込んでしまう。試しに友人の写真(自分でもいいけど^^;;)でも用意して、マジックで青や赤に髪の色を染めてあげよう。勿体無いと思ったら、スキャナにでも取り込んで編集すればよい。

 そのとき、これが本当に自分の知っている×××君なのか!?と思うだろう。(もし似合っていたとしたら、その人に髪を染めることを勧めるといい)現実世界では髪を変な色に染めると異常、それどころか別人にさえ思えてしまうのである。

 では、コミックではどうして人として認められるんだろう。これは、目がまん丸でも、鼻が三角でなくても、口が裂けていても“漫画”では通用する、ことと同じだ。

 丸と線だけで、人の体が書けてしまう様に、髪の色が異端であっても、コミックでは極めて正常なのだ。これは漫画の持っている魔力なのだろう。

あの世の世界

2003年3月10日
 宗教思想の根底には必ずと云っていいほど“死に対する恐怖”がある。死んだらどうなってしまうのか、死んだらどこへ往くのか、死んでもまだやり足りない、死にたくない・・・仏陀を始め数多くの人々が自問自答して悩んだことであり、今も尚多くの人々を苦しませている難題である。

 そこで“あの世の世界”なんていう存在(あるいは概念)が生まれた。死んだら肉体から魂が開放されて、この世とは別の世界に送られる。“あの世の世界”は昔死んだ人から今死んだ人まで幸福に生きている。

 天国、極楽、桃源郷など様々な宗教にそれが見られる。しかし、私はあの世の世界があること自体が怖い。あの世の世界なんて無いほうがよっぽどいいと思っている。

 何で死んでもまだ人格を持ち続けなくてはいけないのか、と云ったらあの世の存在理由に矛盾するが、“死”という分岐点を迎えたのに、場所が違うだけで今と同じ生活をしているなんて、しかも転生するまで永遠に消えることができないわけだから非常に不合理。“死”の意味を失う。私は“死”が単なる通過点だという考えを持ちたくない。

 睡眠に落ちている時、夢を見ているときと全くの無意識のときがある。つまり、人格がその時点で消滅しているということは誰しもが体験していることだ。一方浅い眠りのときに人は夢を見ている。あの世の世界があるということは夢を見ていることと同じようなものだ。

 死んでも尚夢を永遠に見続けなくてはならない。こんな恐怖があるだろうか。いっそのこと永眠と云うように、熟睡して人格を消滅してもらった方がどんなに楽なことか。
 世の中に出回っている歌の多くはどうも螺子が狂っているようだ。

 歌のタイトルに英語を用いるのは、まあカッコよかったり先入観を与えないなどとして認めよう。でも歌の中に英語、それも英文が混じっているのはどういうことだ。

 “うた”とはつまり歌であり詩(うた)であり、曲と詞(ことば)がマッチして初めて歌になるものだ。つまり、聞き手に曲と詞が理解できなくてはならない。

 日本人の多くが英文を耳にして理解できるとは思えない。云っちゃ悪いが、変に派手な若者の歌手の多くが、英会話を理解できるいるとは思えない。

 それなのに、歌に英文が混じっている。日本語の歌なのに。“グレート”とか“ワンダフル”とか英単語ならまだましだが、長ったらしい英文を、しかもテンポの速い曲調で言われても誰が理解できるものか。もし曲調を売りにしているのなら、それは歌ではなく単なる曲であるし。

 感動の歌詞が作れないから、無理矢理英文を混ぜてカッコよくしようってのが腹の内であろう。

 加えて言えば、日本語的な下手な発音で、言わばカタカナ語で歌われると、いくら度すのある曲でも白けてしまう。

 そんな歌をわざわざ歌い、そんな歌をわざわざ聴く世の中を私は理解できない。

悪事

2003年3月8日
【坂井議員を逮捕、自民は除名 政治資金規正法違反事件】

 東京地検特捜部は7日午後、衆院議員の坂井隆憲容疑者(55)=佐賀1区=を政治資金規正法違反(虚偽記載)の疑いで逮捕した。坂井議員は逮捕前の特捜部の聴取に対し、容疑を否認しており、逮捕後も同様の供述をしているとみられる。自民党は同日、坂井議員を除名した。

 現職国会議員の逮捕は、昨年6月にあっせん収賄容疑で摘発された鈴木宗男衆院議員以来。鈴木議員は同9月に、同じ虚偽記載の罪で追起訴されており、政治資金をめぐるうその収支報告が政治家主導のもとで行われている実態が再び明らかにされた。

 坂井議員は逮捕前の調べに対し、「そんなに大きな献金があったのか。秘書が適正に処理しているものだと思っていた」などと否認していたという。

 逮捕に先立ち、衆院は午後1時から本会議を開き、坂井議員の逮捕許諾を全会一致で議決した。

 調べによると、坂井議員は多額の献金があったのを知りながら、政策秘書の塩野谷晶容疑者(38)らとともに裏金として処理することを計画。97年から01年にかけて5期にわたり、同議員の資金管理団体「隆盛会」の政治資金収支報告書に実際より1億2043万円少なく記載したとされる。

 これらの資金は、いずれも坂井議員の要請を受けて、大手職業訓練会社「日本マンパワー」の小野憲会長(71)から提供されていた。坂井議員は身辺に捜査が迫ると自ら証拠隠滅行為を指示して捜査妨害するなどしたため、特捜部は国会会期中の議員逮捕に踏み切った。虚偽記載容疑での国会議員の逮捕は、98年の故・中島洋次郎衆院議員以来。

 坂井議員は佐賀県出身。90年2月に総選挙に立候補して初当選し、4期連続当選。労働政務次官のほか衆院地方行政委員長や内閣府副大臣なども歴任した。最近まで衆院厚生労働委員長を務めていたが、4日に辞表を提出していた。 (03/07 19:46) 朝日新聞

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 最近馬鹿な悪人が多すぎやしないか。勿論悪事は憎いが、それ以上に私は“ばれる悪事”が許せない。

 マスコミが情報として伝える悪事は、否が応でも耳に入ってくる。テレビ、新聞、口コミ・・・悪事はそのとき発覚し、人々に認められる。

 しかし、悪事がばれなければどうだろう。その悪事は人々に認められないから、存在しなかったことと一緒だ。つまり、人はばれなきゃ何やってもいいのだ。人の心の秘密裏にある情報なんて誰も探ろうとはしない。

 だから悪人は、悪事をしていることに誰一人に気づかれてはいけない。政治家が仮令賄賂をやっていようが、ばれなければあの人は人望があるんだな程度にしか思われないし、政治活動が芳しくなくても、激励される程度である。政治活動が全くの下手であるのに、人望が厚いとこれは国民に不審がられ、最後にはばれることになるが。ここをばれないようにするのが悪人の知恵である。

 悪人の悪事が暴露されず、今後も暴露されなければ、この世界は平和であろう。

風景の変遷

2003年3月7日
 ♪ユーキヤコンコンアラレヤコンコン〜
 ♪ピチピチチャプチャプランランラン〜

 普段の天気と異なる天気を、ユーモラス且つファンシーに扱った歌(童謡)は多い。

 しかし、私は普段とは異常な天気よりも、ごく平凡で正常な天気の方が好きだ。

 しかし、私がまだガキ(今もか^^;;;)だった頃は結構それが好きだった。

 しかし、そのガキの心が私は理解できない。

 ガキは世の中を知らないが故の邪気を沢山持っている。イジメ、タカリなどがそれに代表されるだろう。その子供を世の中は無邪気だという。昔の自分を彼らは知らないのだろうか。

 昔の自分を理解できない、この自己矛盾は一体どこから来るのだろうか・・・。

風呂の学問

2003年3月6日
 全ての学問は風呂場から生まれた!

 ・・・・・・に違いない。入浴することで、数理学と科学、そして哲学の真理を得ることができる。

 「ヒーフーミーヨーイームーナーヤーコートー」

 これで初等整数論はばっちり。

 洗面器を浴槽の底へ沈め、手を放すと浮き上がってきてしまう。だが、洗面器の中に水を入れてやれば沈んだままである。水がこぼれない様に洗面器を持ち上げると水面より上に来ても水は落ちない。

 水圧と空気圧を直観でき、これで圧力はばっちり。

 浴槽に手を入れてみたら十分温かかったので体を沈めたら底はまだ冷たかった。

 これで熱力学はばっちり。

 浴槽に体を沈めても、体温は変動しない。

 これで生物学はばっちり。

 濡れているタイルの上で滑った。

 これで摩擦はばっちり。

 風呂に入ると心身ともに癒される。

 これで哲学はばっちり。

 まぁ、こんな風に風呂場は学問の宝庫である。アルキメデスもそうだったようだし、入浴を堪能できない国の外国人とは何て可哀そうなんだろうか。

贖罪と刑罰

2003年3月5日
 推理小説を読んでいると、犯人が(自殺しなければ)警察に逮捕され罪を償う、という形にで終幕を迎えることが多い。法廷モノはこの段階を扱うのだから、ここでは除外するが、本当に法による刑罰が贖罪に相等するのか、といえば違うような気がする。

 “罪”があるのだから、そこには加害者と被害者がある。そして、贖罪とは加害者が被害者に与えた損害をある手段によって帳消しにするものだと考えればよい。それでは刑罰とは何だろう。これは罪人に贖罪を委ねる為の手段ではない。刑務執行は常に刑罰権を持つ国家によって行われるもので、被害者はそれに全く関与しない。

 例えば、加害者が被害者にとって“生”さえも剥奪したい罪を犯し、国家が加害者に死刑を宣告したとしよう。加害者は自らの死を以て罪を償うのだが、断頭台の紐を引くのも、絞首台の板を外すのも、被害者が執り行えることではない。つまり、刑罰は被害者に対する贖罪ではない、と云える。

 つまり、刑罰とは秩序を乱したことに対する制裁だ。よくもこの国で厄介事を起こしてくれたな、という事実という罪への罰であり、よくも私にこんなことをしてくれたな、という直接的な罪への罰ではないのだ。

 実際、罰金刑は被害者に金が送られるわけではなく、国庫に納められて国家維持に扱われる。つまり、刑罰は“罪の税金”でしかなく、贖罪は絶対に行われない。

 現実世界では秩序を大切にしてもらいたいから、それでも一向に構わない。が、国に対する償いを、被害者に対する贖いよりも優先するような話(推理小説)は好きになれない。

 要するに、警察に逮捕してもらえばそれでいい、なんていう中途半端な終わり方をするミステリは読み飽きた、って事(^^;;)まぁ、妙な世界観を押し付けるわけにもいかないから当然のことなんだろうけど。

言葉のリレー

2003年3月4日
 我々は感覚は言語に支配されているような気がする。頭の中で何かを考えるとき、それは確かに(日本人なら)日本語であるし、コンピュータの様に、“P⇒Q”が司っているとは思えない。

 ところで百科辞典を作った人は物凄く感覚に長けていると思う。もちろん、百科事典を作るには相当な語彙が必要だが、何より“言葉の意味を説明する力”が不可欠だ。

 適当な言葉を思い浮かべ、それの意味を考える。例えば“能力”。大辞林(http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?pg=jiten_ktop.html&;col=KO)によれば“物事を成し遂げることのできる力”となっている。それでは“成し遂げる”とはなんだろう。同じく大辞林では“物事を最後までしとおす”こととなっている。“最後”とは何だろう。“物事の一番おしまい”となっている。“一番”とは何だろう。“最も”となっている。“最も”とは何だろう。“比べたものの中で程度が一番上であることを表す”となっている。“程度”とは何だろう・・・・・・。

 このように、言葉の意味を説明するには他の言葉が必要で、それに終わりはない。簡単な例で云えば“何って何”だ。また、意味の中で最初、若しくは途中で挙げた言葉が現れたとき、以後ループしてしまう。つまり、言葉は絶えず他の言葉にバトンタッチして“リレー”しているのである。

 我々は言語に支配されているような気がするが、言語には底が無いのだから単に感覚が言語を借りているに過ぎないのである。もし、底があるのだとしたら、この文章はたった1つの言葉で言い表すことができるはずである。

漢数字

2003年3月3日
 一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、禾市、穰、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数・・・[10^0〜10^68]

 マニアな人は知っている日本語の数詞である。昔、児童向けのパズル本に載っていたのを全部暗記して意味も無く喜んでいた記憶がある。円周率的な魅力があるのだろう。

 数字は、アラビア(算用)数字を使って書くのが一番判り易いが、縦書きの文章はそれを許してくれないので、上の漢数字を使う。例えば次のように使う。

 今から六千五百万年前に恐竜は滅びた―――

 我々は、百や千や万、多くても億や兆程度の数しか扱わないので、澗とか阿僧祇とか云ったものを記憶している必要は無い。だが、敢えて果てしなく大きな数を使わなくてはならなくなったとき(そんな例は思いつかないが^^;;)、例えば

 1234567898765432123456789

 という25桁の数を漢数字で表すと、

 十二穰三千四百五十六禾市七千八百九十八垓七千六百五十四京三千二百十二兆三千四百五十六億六千七百八十九

 という見るだけでも嫌になってくる文章(?)になってしまう。この億劫さから、ある日漢数字は変貌した。

 今から六五〇〇万年前に恐竜は滅びた―――

 “千”“十”“百”を使わず、ただ“〇〜九”の漢数字を使い、〇が続くところは便宜上“万”や“億”を使うのである。

 まさに本末転倒!!!何とも愚かしい行為だ。これは最早日本語ではなく、漢数字を借りた算用数字に他ならない。例えば“三四五六七八九〇”という漢数字的算用数字があったとき、読むためには一の位から桁数を数えないといけない。これでは全く算用数字と同じ面倒さを備えており、日本語の利便さを放棄してしまっている。

 これは日本語で無いから、縦書きに用いることは許されない。多少読みづらくなってもよいから、“34567890”と無理矢理割り込ませたほうがまだ利口である。

 英語表記が格好良く見えるように、数字も普段使わない漢数字を使ったほうが格好いいとでも思っているのだろうか。(思ってるんだろうな^^;)

 “日本語”を壊す要素はこれだけではない。“蜜柑を二三個頂戴”のように使う言葉があるが、漢数字的算用数字が認められると、これは“蜜柑が2個か3個程度欲しい”のか“蜜柑を23個欲しい”のか判らなくなってしまうのである。この差は非常に大きい。“蜜柑を二、三個頂戴”と読点をつけるのも馬鹿らしい。

 十倍以上も数を惑わしてしまう漢数字的算用数字の、全面撤廃を私は要求したい。

銅鑼。

2003年3月2日
 ドラえもんの最新映画の試写会があったそうだ。小学生の頃は絵を描いて(優秀作品だと試写会に招待されるのだ)楽しみにしてたものだけどなぁ・・・。

 藤子F先生が亡くなってから、ドラえもんの映画は変わってしまった。原作者が死んだから当たり前なんだが、まず第一にテーマ曲が変わった。若手の歌手を採用することに別に文句は無いんだが、何か質が足りない気がする。金八さん・・・じゃなかった武田鉄也さんの作詞に負けないほどの歌が欲しい。

 そして、脚本。藤子F先生が原作を作っていた頃は、ファンタジーあり、SFありと、純粋なファンから、ちょっと捻くれたファンまで楽しめる要素があった。それなのに最近のは飽くまで低年齢志向で、何の捻りもないファンタジー一直線。取って付けたようなSF要素なら無いことも無かったが、面白くない。いまどき、未来の科学者が幻獣を作った、なんていっても誰も驚かない。

 そして、ドラえもんは異世界ファンタジーを冠するように、奇抜な設定があった。これまでの映画の舞台で似たり寄ったりのものは1つもなく、恐竜時代から夢の世界まで色々な世界観を楽しませてくれた。

 なのに!今のドラえもんにはそれがない!藤子プロは凡才しかいないのか!藤子先生の意思を継承した、と言い張るくらいの異常な野郎はいないのか!

 全く別物となってしまったドラえもんは、今年は観に行かないかもしれない・・・。

小惑星

2003年3月1日
【壊滅的被害もたらす小惑星が接近…あなたは知りたい?】
2003.03.01
Web posted at: 07:27 JST

(CNNより)
「壊滅的被害をもたらす小惑星が地球に接近していることがわかった場合、一般大衆は、それを知らされるべきだろうか?」。2月、コロラド州デンバーで開かれた米科学振興協会(AAAS)の会合で、科学者がこんなテーマで激論を交わした。

「知らされるべきではない」という意見を述べたのは、シンクタンク「ランド・コーポレーション」(カリフォルニア州サンタモニカ)のジョフリー・ソンマーさん。ソンマーさんは「警告を受けても対策の取りようがない場合、警告をしても全く意味がない」と話し、警告が遅すぎる場合は、政府は黙っておくべきだという意見だ。

しかし、ほかの専門家はソンマーさんの意見を激しく批判した。

英リバプール・ジョン・ムーアズ大学のベニー・パイザーさんは「ソンマーさんの考え方は全く合理性を欠き、現実的ではない」と話す。パイザーさんは小惑星の追跡をしている専門家だ。

またパイザーさんは、「専門家のほかアマチュア天文家も簡単に観測データや計算結果を入手できるので、小惑星接近を秘密にしておくことはできない」とも指摘する。

地球に壊滅的被害をもたらす直径1キロ以上の小惑星で、地球の軌道の近くを通るものは1000個以上あると考えられており、米航空宇宙局(NASA)は2008年をめどに、そうした大きな小惑星のリストづくりを進めている。

大きな小惑星の衝突は、6500万年前に恐竜の絶滅を招いたらしいことがわかっているが、その確率は低く、100万年に1回ぐらいしか起きないと考えられている。

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 私は知りたいな(^^)どうせなら地球(じゃなくて自然か^^;)の最後を目の当たりにしたいじゃないですか。

 もし、知らされていなかったとしたら、「あ、流れ星だ」「ちょっと変わった流れ星だなぁ」「うわあ!」で終わりだろうから。

 でも、知らされていたとしたら、「あ、来た万歳!」でじっくり観察できるじゃないですか。

 もっとも、地球上がパニックになって、某国が自棄(やけ)になってミサイル発射、なんてやってくれるのは嫌ですが。

 藤子F先生の「モジャ公」の最終回で、親父さんが火事場泥棒に諭すシーンがあるけど、想像するだけで面白いなあ(笑)

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 「継続は――」

 驚くべきに、先月(2月)はオールコンプリート!1日も休むことなく日記を付けている。これも偏(ひとえ)に私、じゃなかった皆様のお陰。これからもよろしくお願いします(^_^)

隠匿

2003年2月28日
 秘密の文書を作成した。その文書は門外不出のもので、公に出すことを自ら禁じた。その文書をあなたは破棄したい。鉛筆で書かれたものなら、消しゴムで消せるだろう。ペンで書かれたものでも、鑢のような消しゴムを使えば消せる。しかし、筆圧による筆跡の窪みまでは消すことができない。ならば、文書の器そもそもを消去するしかない。シュレッダーにかけて、刻んでしまうか。いや、いくら微塵に刻んでも復元は可能だ。それでは、物質そのものを変化させるか。それが紙なら、炎にくべれば墨と化す。しかし、鉄のような器であったらどうだろう。我々普通の人は、鉄を溶かすような高温を作り出すことができない。それに、鉄ではなくどんな化学変化にも耐えうる、現代科学では太刀打ちできない物質に書かれた文章だったらどうだろう。となると、残された手段は、“隠匿”である。この世に曝さなければ、隠匿も破棄同然となる。

 ―――地球外生命体は脅威に満ちている。星を護る者として、我が星の民を危険に導くわけには行かない。だから我々は封印することにしたのだよ。この地球のメモリーを。

 ↑が何を意味するかは、わかる人にはわかります。(マテ)

孤独の夢

2003年2月27日
 ―――俺は夢想にふけ、現実から逃げた男を知っている。この世で一番不幸な人間であった。昔は、平凡にこの世に生を受け、平凡でこの世に育まれ、平凡に生きた男だった。ところが、ある時を境に、瞬く間に窮地に落とされた。全面核戦争、小惑星衝突、地殻大変動、何があったのかは想像だにできないが、兎に角その星の大自然を揺るがす大災害があった。生き物は完全に淘汰された。その時、男は星の最果ての極地に埋もれていた。無実の罪で島流しにあったらしい。誰もいない極寒の地に投げ出された彼は、何もせずとも気を失った。白銀のベッドの中で永眠することになった直後に、星の不幸は起こった。不思議なことに、その大変革は男に再び生を与えた。コールドスリープの男は覚醒した。いつの間にか雪は晴れていた。雪解けのあと、現れた荒野に彼は足跡を付けた。吹き荒ぶ風は、その軌跡を一瞬にして消し去る。彼は全ての皮肉を察した。死すべきはずであった自分が生き、生きるべきはずであった他人が全て死んだことを。それでも、ある程度の時間は生を共有できる仲間を捜し歩いた。余力が尽きると、彼は自ら死を望んだ、が、できなかった。多くの人々の不幸を目にしているのだ。死の恐怖を克服などできるはずがない。男は逃げた。存在の無い現よりも、存在を生み出せる夢の中へ。
 その男と同じ境遇で、偶然生き延びた俺はその様を見つけて愕然とした。不幸を歩いてやっと巡り合えた仲間が、現を捨て夢の中の人間になっていた。絶対の揺り篭から男を救い出すことはできなかった。俺は孤独の夢に別れを告げ、孤独の中を立ち去っていった。同じ境遇の男がもう一人いたのだ。同様にして生き延びた人がいるかもしれない。死を超える恐怖の果てに、俺はそのことを話す相手を見つけた。それが君だ。
 ―――目覚めよ。

柿の種

2003年2月26日
 ふと思ったんだが、柿の種ってなんで柿の種なんだ・・・。

 アーモンドは扁桃(リンパのことじゃないぞ^^;)というくらいなんだから、桃(薔薇)の種なわけだから、無関係だろうし。(但し、柿の種とアーモンドのセットは略して柿ピーと云うようだが)

 とりあえず、数種類の柿の種の原材料を確かめてみたけど、米からできた普通のスナック菓子としか見えない。(殆どに有害調味料であるアミノ酸その他が入っているのには苦笑^^;;)

 単に柿の形をしているからだといえばそれまでだけど、何か深い意味はあるのだろうか、ないのだろうか。

 予断だが、チョコ浸けにした柿の種があった。これは好みが分かれるだろうなぁ・・・とりあえず私は唐辛子が剥き出しになったほうが好きです。
 

呼吸法

2003年2月25日
 花粉症にかかった。しかも、鼻で息が吸えないため、口で呼吸をしていたら喉まで痛めてしまった。おかげで飯が不味い。最悪。

 呼吸は鼻だけで行うのがベストだという。何故なら、鼻腔には空気を浄化する作用があるからだ。口での呼吸だと汚い空気(とくに都会)をそのまま吸い込むことになるから、肺に悪いのである。

 昔、テレビで見たのだが、最近口呼吸で生活している人が増えたらしい。鼻孔は小さいから(ときどき大きい人もいるけど(笑)、口で吸えば少ない力でたくさんの空気を吸い込むことができるからである。しかし、それに慣れて日常的になってしまうと上の理由で肺炎などになってしまうのだとか。

 口呼吸であるかどうかを確認するには、無意識のときに口が開いていないかどうかを見ればよい。口呼吸の人は、想像するだけで情けない顔をしているわけなんだな。

 幸い私は、平常時は鼻で呼吸しているようだ。また、マラソンなどの運動するときも極力口を開かないよう意識している。ただ、さっき言ったように鼻孔は小さいからすぐに酸欠になるのだが(^^;)

 そんなわけだから、花粉症になると余計にプレッシャーがかかる。鼻は詰まっているが、口を開いてはいけないと思う、このジレンマは相当辛い。

 ついでに言えば、私はホコリアレルギーでもあるので、口で呼吸すると余計に鼻水が出るのである。アレルギーってのは全く鬱陶しいものだ。

 仕方ない、マスクでもするか・・・。

花子さん

2003年2月24日
 Mysteryで使われている正多面体の展開図や座標平面図などは全てウインドウズ付属のペイントで作られています。いや、嘘じゃなくてホントに。

 “ギリシアの作図三大問題”で直線と円による作図について触れたけど、実際この2つがあれば、マクロに(つまり巨視的に)多角形や曲線が作れるんだよね。学校で、ちまちまと沢山の点を取って反比例や二次関数のグラフを書かされるみたく。

 だけど、結局は人の手でドット打ちをやるわけだからかなり時間がかかる。Mysteryの更新に間が空いたのもそのためだったり。(いや、サボってただけ(爆)

 先日、電気屋で一太郎の最新バージョンが出るとか宣伝していた。私はIME派なのでATOKは無視していたから、一太郎も気にも止めていなかった。(偏見では^^;)

 一太郎の隣に花子ってソフトがあった。これも同じ理由で気にも留めていなかったんだが、それはチラシによればグラフィックツールだという。

 専門知識無しで色々な製図ができるっていうから興味が湧いて、結局学割で買ってしまった(^^;)

 それがなんと、今までのが嘘のように製図できてしまう。一太郎の姉妹ソフトのくせに文字打ちが不便なのが残念だが。

 ジャストシステムも満更捨てたもんじゃないようだ。

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