ないよりまし

2003年5月19日
 こんな統計があるそうだ。「人生の目標の国際比較」。『人生を楽しんで生きること』が日本は60%、米国は5%。『高い社会的地位や名誉を得ること』が日本は5%、米国は40%。日本もまだまだ捨てたもんじゃない、と思わせる結果だ。

 テスト勉強をしててふと思う。この勉強は人生において有意義で必要不可欠でインポータントなことなのか。一度そう思ってしまうと、集中力が無くなり、熱心さが失われ、通常の2、3倍の時間が費やされる。そして、この余計に掛かった時間が後で勿体無く感じられる。何と言う悪循環だろう。

 そこで、自分に暗示をかけるのである。『人生ないよりましだ』と。仮令必要性が見出せなくとも、知識が無いよりはいいだろう。有意義ではなくとも、テストという失われた時間を無駄に費やすよりは幾分かましである。

 しかし、この考えは単なる現実逃避だ。人生に有意義か否かに明確な解等を与えていない。勉強は何が為にするのだろう。まず第一と挙げられるものが、有用な社会人になる為だ。つまり、一般教育は社会の構造の1つである。故に、(押し付けられた)勉学の意義とは社会の為にある。

 先述の統計にあるように、社会の構造と対比的にあるのが自身の人生である。さて、どちらを選ぶ方が有意義だろう。社会か、自身か。

 社会的に認められても、私は有意義だとは思わない。何故なら、そこに「ないよりまし」発想が無いからだ。社会とは秩序であり、秩序とは一遍通りの形を持続させることである。今を持続することに「なくはない」ものはない。

 だから、自身よりも社会を選ぶことは、有意義ではないように思えてしょうがない。別に「ないよりまし」じゃなくてもいいじゃないか、と思われるかもしれないが、これ以上説明をつけるのは無理だろう。一言で言えば、「おもしろくない」それに尽きるのだから。

 クラス全員が、同じテストで満点を取ったとする。つまり、社会に組み込むためのコピーが沢山できたということだ。コピーであることを自覚し、「人生を楽しく生きること」を目標にする彼らが、反旗を翻すことができれば一番素晴らしい世の中となるだろう。

 (例によってテスト勉強の愚痴です^^;)

デテキントの切断

2003年5月18日
 Q.E.D.15巻で、デテキントの切断が取り上げられていた。数学ネタでオイラーの定理、ケーニヒスベルクの橋、クラインの壷と来て今度はデテキント。

 次は魔方陣かモンティホールジレンマ(根拠無し)でも来るんだろうか、と邪推しちゃうところ(笑)

 Q.E.D.は、理知的(パズル的)なトリックを持ってくる推理漫画ですんで、コナンに愛想を付かした方は是非読んでみてください(笑)殺人事件も少ないんで、ミステリーが嫌いな方にもお勧めできます。

 ところでデテキントの切断。Q.E.D.では有理数・無理数の連続、稠密性を刃物に当たるか当たらないで説明したけど、私はそうは思わない。

 つまり、刃物は何ものにもぶつからず、また通り抜けることも無い。そして、最大数と最小数の間に消えてしまった“数”は実は刃物にくっついているのである。ケーキを切ったとき生クリームがナイフに付いている様に。(そしてそれを舐めたくなる様に(笑)

 ナイフにくっついているのを数というのは厳密ではない。正確に云えば“数の集合”だ。つまり、実直線は2つの半直線と1つの点(に濃縮された線分)に分けられるのである。

 で、ここで問題になるのは、点と半直線の間になる数。これはどこに行ったのか。・・・と考えるのは間違いで、このどこに行ったのか、と思われる数が点なんです。この点は無限の底に落ち込んでいるわけだ。

 つまり、0.999999999・・・と1.000000000・・・・・・の間に落ち込んでいる循環小数0.9の無限の底の数がその点にあたる。

 こうすれば、実数と有理数の濃度が対応しないことも説明できると思うけどどうだろう?

 (・・・って、こんな話誰も相手にしちゃくれないか^^;;)

勿体無い時間

2003年5月17日
 時間の概念というのは、身近なものであるのに感覚的に備わらない。

 ある朝のこと、目覚まし時計が鳴って、あと5分寝かせてくれ、と布団にもぐる。そんな風景は日常茶飯事なことであるが、これはたった5分くらい先延ばしにしてくれ、と内心思っているが故だ。

 しかし、されど5分。二度寝という中途半端な行動によりどれだけの時間が費やされたことか。たった5分のことが、今となっては長い長い過去の記憶となっている。

 時間は急速に流れているのだ。科学的にも、心理学的にも。

 積もり積もって失われた、勿体無い時間を返して欲しい・・・。

今日の日記

2003年5月13日
 試験が近いんで日記は更新できないかもしれません。(高校は真面目にやらなくては^^;;)

 まぁ、例によって(?)愚痴が書かれるかもしれませんが(笑)

時のフィルムと

2003年5月12日
 映画を観る。傑作か、駄作かの如何はさておき、スクリーンの中でキャラクター達が伸び伸びと自分の役割を演じている。

 しかし、これは飽くまで現実で起きたこと、現実での絵をコピーしたに過ぎない。

 自分が監督なら、ふとある切っ掛けを持ってこんなことを思うだろう。現実とは、ドラマとは無限枚のフィルムからできているのだろうか。それとも、一枚のスクリーンが無秩序に波打っているのだろうか。

 時間とは無限枚のフィルムなのだろうか。一枚のスクリーンなのだろうか。それを観て、神は世界をどのように評価しているのだろうか。

 ふと疑問に思うのである。

交差点の数理(二)

2003年5月10日
 一昨日の続きを。

 それぞれの横断歩道を測った後は、メインテーマである信号の時間割について。

 ざっと見回したところ、ここの交差点には右のみ、左のみ、直進のみ、といった方向を限定する信号や、押しボタン式といった小細工はないらしく、歩道も車道も、赤・青・青点滅(黄)のみだった。

 横断歩道Xの歩道を、walkからとってX(w)、それを横切る車道を、driveからとってX(d)と表すことにしよう。

 まず、A(d)の信号が赤になったときから、計測開始。方法は、一番見晴らしのいい場所に立って、腕時計の時間計測機能を用いて、目測で赤・青・黄を瞬時に確認するというもの。しかし、如何せん信号が10個もあるもんだから、一筋縄ではいかず、信号が何サイクルもする間棒立ちにされましたが(笑)しかも、ちょうどラッシュ時間で、行き交う人々の量が多く変な目で見られました(冷汗)

 そうなんです。複雑な交差点があるところは、大抵駅の近くなんですよ。

 目的(交差点の数理の研究^^;)を見失わないうちに、計測結果を。

 ☆A(d)が赤になってから計測開始

 000秒 A(d) 赤 C(d),E(d),A(w),D(w) 青
 045秒 A(w),D(w) 赤
 090秒 C(d),E(d) 赤 B(d),C(w) 青
 135秒 B(d),C(w) 赤 D(d),A(d),B(w),E(w) 青
 180秒 D(d),A(d),B(w),E(w) 赤 C(d),E(d),A(w),D(w) 青

 180秒で000秒と同じ形になり、その後同じように点滅が繰り返されることがわかりました。

 つまり、全体的に信号は45秒おき(但しC(d),E(d)については例外)に点滅し、1つの信号が赤になって青になるまでの間は3分というわけですね。

 C(d),E(d)は一昨日の結果を見ると一番車線の多い車道となっている。だから、青の時間を他よりも長くする、という小細工をしている。しかし、それ以上の小細工は特にしておらず、待ち時間が3分−45秒で、約2分ちょっととなっている。

 つまり、・・・・・・遠方に信号が見える。今ちょうど青が点滅しかかっているところだ。急げ!必死に重い荷物を抱えて走る自分。急に走り出したものだから、身体があまり言う事を聞かず、息が豪(えら)くなる。そして、信号の前に立ったその瞬間。赤になって車が走り出してしまった・・・・・・。そんな日常の風景において、彼は今から2分ちょっとも待たなきゃいけないのだ。実際には、違う信号から急がば回れとして渡ったり、道を変えたりするわけだが。

 そもそも何故、直進、右、左や、タイムラグなどの小細工をしないのか。

 この交差点は、少々合理的でないように思えてしまう。(続く^^;)

演技

2003年5月9日
 今日は学校が芸術鑑賞として、狂言を見に行ってきました。個人的には能が見たかったんですが、それはともかく、市役所近くのとある能楽堂へ向かう。

 狂言とは?私は“猿芝居”をイメージしていました。即ち、表面的な人間の卑俗さを見せる、滑稽な演劇。つまり、日本的なお馬鹿を演じさせる。

 そして観てみると、イメージとは相変わらずそんな演劇でした。劇は“萩大名”と“附子”。至って有名な話なんで内容は既に知っていました(^^;)

 狂言を始めて見た感想としては、読んで字のごとく“芸能”という名が相応しい劇でした。

 “笑い”“泣き”などの表現がとても演劇的。人の感情を真似しつつ、しかし独自の形(見ればわかります)に持っていく、近代の演劇に見習わせたい様子がありました。最近の演劇は“真似”というよりは“写実的”な感じがあって、見ている方が馬鹿にされているような気分にされませんか?

 演劇だからこその演技、ってやつが、最近は失われているような気がしてしょうがない。
 いつの間にやら日記のカウンタが10000HITオーバー!

 これもヒトエに皆様のお陰。いつもご愛読有難うございます。

 “クリの部屋”のカウント数よりも多い(しかも日記の方は重複を認められていない^^;)ということに少々考え込んでしまいますが、どうぞこれからもKuriTheaterをよろしくお願いします。

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 近所に横断歩道が5つある、少々入り組んだ交差点がある。普通は、1本の車道と1本の車道がクロスした十字路であるのだから、当然車や歩行者の通行は困難なものとなる。

 だから、この交差点を渡るには、ある程度の知恵が必要だ。即ち、今左の横断歩道は赤だけど、右から行くと遠回りになるから、やはりある程度待つのを我慢しなくてはならない、といったようにだ。

 五角形からとって、これをP字路とでも云おう(正式な名称ってあるんでしょうか?)。P字路は、十字路と違って縦が赤のとき横が青とすればよい、なんていう単純な交通管理はされていない。だから、我々は十字路のときよりも待ち時間を多く取られてしまう。故に私は、P字路のあるような交差点は極力避けている。

 ところで、P字路で短く渡れるような交通管理とはどういうものなのか。また、私の近所の交差点は最良な管理を取っているのだろうか。

 そんな疑問から調査してみることにした。

 メモ帳とタイムウォッチ(腕時計)を持って、現地へ向かう。まずは、信号が青になったときを見計らって、横断歩道の長さを測ってみる。

 5つの横断歩道をA、B、C、D、Eとしよう。A〜Eまでの横断歩道を渡れば、また同じ地点に戻ってくることになる。また、A、B、C、D、Eに囲まれたスペースが車の合流地点となる。

 このP字路での横断歩道の長さは次のようだった。

 A;11 [in(1) out(1)]
 B;8+13 [in(3) out(2)]
 C;10+13 [in(4) out(3)]
 D;9 [in(1) out(1)]
 E;11+17 [in(5) out(2)]

 ここでの数値は、白線の数で、“a+b”は車道が進行方向によって分断されている場合である。“[in(x) out(y)]”は、合流地点に入る車線の数をx、合流地点から出る車線の数をyとして表した。

 見て判るように、この交差点は正五角形ではない。また、合流地点へ入る車線の方が多いこともわかる。5つの車道から車が入り乱れるわけだから、少ないと困るのだろう。

 白線を数えるために、下を向いて歩いている自分を馬鹿らしく思いつつ、次は信号の待ち時間について計測することにする。(続く^^;)

京都のコナン

2003年5月6日
 今日は映画館に行ってコレ(http://www.conan-movie.jp/)を見に行ってきました。コナンの映画は日に日に(じゃなくて年か)壊れていきますねぇ。もうミステリーじゃなくて単なるアクションでした。

 ネタばれのない程度に感想。テーマは日本人の心の故郷(らしい)京都と義経。五条橋の銅像もちゃんと出てきました。中学校の頃遠足であの橋をバスで通ったから見たことあるなぁ・・・記憶と合致してちょっと嬉しい(笑)

 ストーリーは何か落ち着きがありませんでしたね。碁盤の町をウロウロとしてて一体監督は何がやりたかったのか、と思いました。

 ちょっとだけよかったのは和葉が合気術をやってたことでしょうか。チャンバラの最中、小手返し(多分)を見事に決めてます。まぁ、私も合気道の手習いをしてるけど、実際ああいうのに遭遇したら、防御する以前に逃げることに専念するでしょうが(笑)

 京都の町並みを気軽に(アニメだからね)見てみたい、という方にお勧めします。

忘却

2003年5月5日
 何か忘れている

 忘れたことすら忘れている

 そのことさえも忘れている

  ・・・・・・結局

 全てを覚えている

白銀か黄金か

2003年5月4日
 ゴールデンウィーク、とは名ばかりで、実際は土日の後に祝日が来た、程度の連休。それほど実質的な喜びは感じられない。それどころか、連休だから暇だろう、と称されて宿題が出されてしまう、という不幸な面もある。

 これならいっその事ゴールデンウィークなんてなければいいのに、と思ってしまう。これも、週休二日制が体に馴染んでしまった所以なのであろうが。

 “ゴールデンウィーク”という名称は、5月1日あるいは5月6日が土曜日のときに適用されるべきで、それ以外は単なる“シルバーウィーク”であれ、と本気で思ってしまうものである。

 さて、そこでふと疑問に思う。今日5月4日は何の日なんだ?昨日は憲法記念日、明日は端午の節句(こどもの日)であることは云うまでもない。ならそれに挟まれた今日はなんの記念日なんだ。加えて云えば、祝日(?)である今日は日曜日なのに振り替えがないんだ。

 てなわけで『今日は何の日』(⇒http://www.nnh.to/05/04.html)で調べてみた。それによると、5月4日は『国民の休日』というやつで、祝日と祝日に挟まれた日は休日となる、という特例が与えられているのだそうだ。

 休日であって祝日でないのだから当然振り替えもない。全く微妙な日ではないですか。

 従って、5月2日が土曜日であってもゴールデンウィークとなるはずだ。

甘い戯言

2003年5月3日
 今日、高校生の弁論大会なるものがあり、暇だったので聴きに行ってきた。論点はフリーのようで、社会問題から人の生死まで様々なテーマで語られていた。

 感想。まだまだ甘い。だって多くの彼らには“価値観”ってのがない。例えば人を殺してはいけない理由。これはどんな理屈で攻めても理論的な解決は与えられない・・・と私は思う。だから、最終的結論は自らの価値観によって決断するべきだ。それなのに、寄せ集めの理屈のみで自分の意見が聞き取れられないのである。

 特に、“法”を持ち出す奴は一番愚かだ。これは国の価値観であって、自分の価値観ではない。(因みに私の価値観では“人は殺してもいい、だけど秩序の上では殺さないほうがいい”が結論)

 質疑応答は部外者も参加できたので、私も参加してみたけど、相手に価値観、あるいは“理想”ってのがないと見えて、まともな回答がなかった。押し黙られると困るのでこっちが引き下がったが・・・。

 固定的な考えは頑固と捉えられやすいだろうが、しかし頑固は素晴らしいものである。何故ならその根底には価値観があるのだから。

 今日日の高校生はこの程度の感覚しか持ち合わせていないのか、と高校生の私には情けなく思えてき、できるなら是非、将来頑固者になってほしいものである。

 因みに、私は“価値観としての神について語れる人間”を尊敬する。

喉下過ぎれば

2003年4月19日
 テストが終わってしばしの休息。終わってしまえば、返ってきた答案の点数が如何なるものであっても全然気にならない・・・(?)

 時は止まることなく轟々と流れるものだ。今から1時間何もするな、と云われればその時間はとても長く感じられるだろう。しかし、過ぎてしまえば過去の話としてどうにでもなるものだ。

 今はゆっくりと流れているのに、過去はとてつもなく急速に流れている。このギャップはどこから来るのだろう。

 テスト期間中であった過去の今は、地団駄を踏みたくなるくらい煩わしいものだ。しかし、過ぎてしまいトラウマさえ残っていなければ、それは過去の話として一蹴される。

 そう、過去は記憶として封印されるのだ。過ぎてしまったものは因果律に縛られてさえいれば変えられない。だからこそ、今さえ耐えしのげば呑み込んでしまったものは何時しか消えてしまうのだから、今が気楽に思えるのである。

苟且の自然に

2003年4月16日
 古典の試験の範囲に徒然草の第十段があった。現世における住まいをどうたら語った随筆文で、その一説、

 ――草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。

 多くの工匠の手によって煌びやかに飾り立てられた住まいは、趣がなく美しくない。なぜ最小限自然に任せないのか。

 今の時代でも、アスファルトにコンクリートの町に住んでいる人たちが、自然を侵して美しさを求める風潮はある。

 そんな彼らの美的概念はおそらく似非である、と私は思う。『自然⇒美しい』は、私も確かにそう思うが、そんな事実を彼らは真に受けて、いつの間にやら『美しくないものは自然でない』即ち『人工物は美しくない』と取り違えているに違いない。

 ここで云っている人工物とは“美術品”ではない。身近な、第十段で使われている言葉を使えば“えならぬ調度品”である。

 美しさと醜さは紙一重だ。人工の町の中にも自然はある。単なる調度品、仮初な自然、それらを深く覗いたことのある人は少ないだろう。均衡のとれ、天然の美を求める前に、一度ミスマッチな身近な美を探してみてはどうだろうか。

忘れられない思い出

2003年4月15日
 学校に居るのに昼にラーメンが食べれる。教師が寛容で全然厳しくない。自習ともなれば自宅に早く帰れる。中学よりなんて楽なんだろう、としみじみと思う今日この頃。実力試験(とは名ばかりの宿題の確認テスト)が差し迫って、毎回のように「どうしてもっと早く(以下略)」と嘆かわしく思う。

 私は(知的好奇心の為の)勉強はもともと嫌いじゃなくて、むしろ好きなのに。どうしてテストの為の宿題はこうも詰まらなく、面倒でかったるくってその上苦痛なんだろう・・・と日本中の誰しもが思っていることを追認する。

 で、ある事実、即ち教育の欠点に気が付いた。それは“テスト中辞書が引けない”ということだ。

 本末転倒だと思われるだろう。しかし、それは根本的な考えに誤りがあるからだ。勉強とは何のためにある?国語だったら言語の意味を深め、数学だったら数のロジックの本質を見抜き、社会だったら世の中の道理を理解し、理科だったら身の回りにおこる不可解かつ当たり前な現象を理論的に考え、外国語だったら他国との意思疎通交流を行うこと。この中に、例えば“漢字を全て記憶している”“公式を完全に網羅していること”“日本の各地地名を覚えていること”云々なんて事項は無い。

 英単語やら公式やら古語やら、それらの暗記は決して“勉学”において必須ではないのである。それとなく理解し、後は活用さえできれば覚えている必要はないのだ。

 人の記憶力なんて高がしれてる。どうせ忘れてしまうものを覚えても意味がないし時間の無駄だ。古典を例に挙げれば、テストの傍らに辞書を置いて、古語の意味、活用の種類などを即間違えずに調べられれば、あとは読解の問題である。国語することの意味は云うまでもなく読解力を深めることだ。

 人が多くの事項を忘れられない思い出にするのは不可能だ。しかも誤って暗記して、頭にインプットされてしまったら大変ではないか。こんなことに時間を割くから、我々知的生命体は馬鹿になる一方なのだ。そうに違いない。

 辞書並の頭脳を持っていても、それは円周率を何千桁覚えていることと何の変わりも無い。

 教育界は勉学の本当の意味を見失っているのではないか。

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 テスト勉強の気分転換に書き殴りました(^^;)いくら熱く語っても、現実することは不可能なんだよなぁ・・・仕方ない、真面目に勉強するか。

科学の子

2003年4月14日
 東海地区でやっと鉄腕アトムのアニメがやった。白黒のヤツは、昔NHKのBSで再放送をしていたのを観たことがあるが、余りの時代遅れなアニメだったので途中で見るのをやめた。だから、特に思い入れもないし、リメイクすることに批判精神は全く無い。

 “てぇつわぁんあぁとぉむぅ〜♪”は流石に使わなかったようだけど、これまた今風なPOPなOPテーマだった。鉄腕アトムだからこそのオープニングテーマが欲しかったのでちょいと残念。(最近のアニメにそういうのが少ないですよね)

 CGとセル(使ってるのかな?)が巧みに絡んでいるのは見事。日本で一番古いアニメを、最先端の技術で復活させただけのことはある。このクオリティが次回以降にも持ち続けることができるか楽しみ。

 内容といえば、至って一本調子で単純な展開。アトムが誕生して、敵ロボットと遭遇して、説得する・・・昔としては新鮮だったとは思うけど、この程度じゃ最近の穿った見方をする少年たち(自分含む)には受けないんじゃないかなぁ、なんて思ったり。技術は最新でもスタッフの時代感覚が古いような気が・・・。

 まぁ、つまらなくはないので次週よりどうなるか、期待。

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 そういえば、ちびまる子ちゃんの新EDテーマ(だけ)も観ました。反戦歌という噂を聞いていたんですがなるほど・・・なかなかいい詩です。気に入りました。

 原作者が作詞した歌ってやっぱりいいですね。ドラえもんやちびまる子ちゃん(しか思い浮かばないけど^^;)など、物語を完全に知っているからこそ、作品を傍若無人に汚せる詩を作れるんだろうね。

鶉卵

2003年4月12日
 ゲージ、水・餌用の陶器の皿付きで千円と、ほぼ無料で売られてきたともいえる鶉のモモちゃん。毎日黒斑の付いた卵を産んでくれますが、この卵を食べるには鶏卵と比べて一筋縄ではいかない。

 まず硬い。鶏卵は机の角にでもコツンとぶつけてやればひびが入りますが、鶉の卵はちょっとやちょっとじゃ割れない。小さな卵だから頑丈でなければいけないんだろう。ガツンとたたいてやればひびが入ります。

 ゆで卵の殻を剥くとき、薄皮みたいなのがくっついたまま、という経験があるでしょう。鶉卵は茹でなくともその薄皮が卵を保護していて、殻に穴が開いてもそれが邪魔をする。

 鶏卵はひびからパカッとフライパンに落とすことが出来るけど、鶉卵ではそれができない。殻と薄皮に穴を開けて、そこから中身を抜いてやる。すると、超極小の目玉焼きが出来る。

ガラスのハート

2003年4月10日
 先日(4月7日)は鉄腕アトムの誕生日だった。新座市がアトムの住民票を配布したり、宝石で像を作ったりと、相変わらず悪乗りの良い日本人の横顔を見るが、それでも尊敬する手塚先生の傑作が復興することに文句は無い。リニューアルしたアニメも放映してるらしいが、私の地方では来週に回されたようだ。

 アトムは“心”を持ったロボットである。当時はそんな奇抜で新鮮なキャラクターが受けたのだろう。私はドラえもんの方が好きだがそれはさておき、果たしてロボットが心を持つことは本当に可能なのだろうか。

 人間と普通に会話して、笑ったり泣いたり、時には反抗したりと喜怒哀楽を持ち、主従関係以上に友情や愛情が芽生える・・・機械相手に。アトムがその語源である原子力で、過剰なコミュニケーションを取ればいつヒロシマが起きるかもしれない、ガラスの器。確かに心を持ったロボットとは、人間関係以上にロマンチックでドラマチックな展開が期待されることだろう。

 ところがリアルの世界でのロボットは、人の手や頭脳ではカバーしきれない作業を行ってくれるロボットにすぎない。そんな心を持ったロボットが現れるなんて、読んでの通り夢物語だ。

 しかしよく考えてみよう。“心”とは何だ。脳は肉体という“器”に対して命令を送って歩かせたり走らせたりする。ただ輪郭としての人を捉えれば、それは機械的動作でありプログラムは十分心に成り得る。つまり、今あなたの前で動いているパソコンも十分心を持つ資格を持っていることになる。

 ただ命令を出す中枢は心とならない。人は外的接触、あるいは干渉によって様々な反応を見せる。器の感覚、目や耳などが感じたことを元に人はある対処を取る。キーボードで与えられた命令に応じるパソコンはその資格も持っている。

 感情が必要か。時に人の命令に忠実に応じ、その命令数が過多となればランダムに反抗する、などというプログラムを複雑に与えればどうか。心理学なんてのがあるように、人の精神的行動なんて高が知れている。それを殆ど解析しコピーすることは不可能ではないだろう。

 あとは生物としての本能、飲食、睡眠などを擬似的に与え、また生物の生きている理由“繁殖”も、材料からロボットを作り出すという作業を与えれば不可能ではない。人間と違う、とは云っても植物や動物の生殖なんて種によって異なるのだから、機械的繁殖を認めないわけにはいかないだろう。

 結局、心なんてものは極めて曖昧で透き通ったガラスのようなものだ。あとは、“魂”という形而上学的な存在を認めるか認めないかで、人口的な心を生み出すのは理論的に容易い。たまごっちだって、心を持っていると思えば、そのように感じられるはずである。

 或いは、魂魄の存在は人が人であるための最後の逃げ道であり、一部の情報屋の創作なのかもしれない。

柿八年

2003年4月9日
 新しく鶉(ウズラ)を飼い始めました。その名は“モモちゃん”。理由は昔飼っていて、私のホームページのマスコットになってくれている鶉の名前が“クリちゃん”だからです。小鳥屋の在庫処分として千三百円(ゲージ付き)で売られてきました。

 毛並みは雄よりも鮮やかではないんだけど、一回り大きいみたいです。クリは毎朝けたたましく鳴いたけど、モモは雌だから鳴かない・・・と思っていたら意外にも鳴きました。勿論雄叫びと称されるほどの大音声ではなく、“ピピピ・・・”程度の小さな可愛い声ですが。

 観察してみると鳴くのはどうも卵を産む直前みたい(てことは唸り声なのか?)。干し草を掻き分けて“巣”を作り、翼を力ませて、悶々とをしながら小さな無精卵を産みます。といっても、鶏の卵と比べて小さいだけで、小柄な鶉のものとしては大きいです。凄いなぁ、と感心してしまいます。カルシウムをしっかり与えなければ(^^;)

 てなわけで初めて“産みたて”の鶉卵を食べました。目玉焼きの大きさが腕時計の文字盤程度しかないんだけど、これがまた美味しいです。良い娘です。一口サイズなので、お酒が好きな方は雌の鶉を買ってツマミとしてみてはどうでしょう?

 “規則正しい生活”のために、夜更かしをしないで早めに電気を消さなくちゃならない。勿論飼い主も。・・・親馬鹿ですね(笑)早寝早起きの習慣がついたら儲けもの(三文だけ)ですが。

 写真は近いうちアップします。雌を飼うのは初めてなので、小鳥を飼ったことのある方はアドバイスしてくれませんか?
 今日は毎年恒例(?)の花祭り、お釈迦様の誕生した日です。幼稚園の頃から祝ってるので、今年も参加しないわけには行かず、甘茶を飲んできました。仏教をグチャグチャにした僧たちの殆どを私は侮蔑していますが、その源流である仏陀様は偉人だと確信しているのでしっかり尊敬しています。仏陀とは何ぞや、と思っている人は手塚先生の“ブッダ”を読みましょう。

 とは云っても積極的に寺院に行こうとは思ってないので、学校に置いてある偶像に参る。宗教学校の唯一の利点です。甘茶(絶妙で不思議なお味)も用意してくれたし。

 仏教の根本的思想の1つに“縁起”というのがある。“縁ありて起きる”という意味で、何事も縁、即ち切っ掛けがあったからこそ今の自分があるのだ、という教えです。縁があって今の自分があるのだから、もっと全てを大切にしましょう。そうすれば今という縁はきっと未来の糧となるはずです。などと“くさい”ことを諭すのだ。

 ところがドラえもんの世界では仏教の教えは成り立たない。正確に言えばタイムマシンがあれば縁起が全くの無意味となってしまう。

 シェークスピアのハムレットという話を貴方は知っている、とする。貴方はタイムマシンに乗ってシェークスピアに会いに行き、このハムレットの話を教える。シェークスピアはその話を元に、“ハムレット”の劇を書いた。

 なんていう事実が、タイムマシンがあれば起こせる。SFなどでは、歴史の修復性だとかなんだとか云って、シェークスピアに干渉できなくなる障害が起きたりするが、それはタイムマシンの存在性に反する。大体話を大げさにしなくとも、自分が過去にいった縁によって、空間が増えた、などと考えても良い。パラドックスが発生しているのは明らかだ。ハムレットの本当の作者がいなくなったのだから。縁が無いのに、ハムレットは悲劇を迎えているのである。

 大きな勢力を持つ宗教が、物理学的に抹消される時が来るのが待ち遠しい。

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