イミテーション

2003年4月7日
 今日から高校が始まりました。中学の頃とは違う設備(エレベータや“効き”そうな冷暖房など)にちょいとばかし感動しています。

 その帰り道、自分の自転車と他人の自転車が交錯する。どちらかが退(の)く、あるいは停止するなどして衝突を回避する。よく見られる風景。

 その相手が、面向かわんとせん、というときに手で鼻で退(ど)けとジェスチャーしてきた。はい、腹が立ちます。ただせさえ“ベル”というヤツで人間味が無いってのにそれさえもせず、ですから。

 で、よく観るとその憎らしい男、ハーネスをハンドルに付けて片側に犬を連れている。自転車で散歩中のようだ。どうやら私の自転車でそのハーネスを引っ掛けないかと心配した故にジェスチャーで合図したようだ。

 てめぇ、タダでさえ狭い歩道を占領するな!

 本気で腹が立った。この私を(自信過剰)鼻であしらった上に、自転車で散歩するなんて。

 あのハーネスは普通の歩きでも危ないってのに、自転車をつけるなんて。飼い主のモラルに反している。大体ハーネスがないと散歩できない躾しているなんて許せない。

 話は変わって、たまにネコ型ロボットのCMを見る。といっても、先日25周年を迎えたそれでなく、本当のロボットのペットである。

 電子ペットも“たまごっち”(持ってました^^;;)から始まって、とうとうリアルのものとなったか、と嘆く。踏んでも蹴っても媚しか売れない哀れなロボット。リセットボタンを押せばまた最初からやり直せる。生命の重みというものが失われないか、と危ぶまれている。私も一時期憤ったことがある。

 あんなイミテーションをペットの代わりにするなんてどうかしてる!!!

 しかし最近思い直した。ペットをペットと思わず、生命を単なる財産としか思ってない馬鹿どもが沢山いる、という事実があるからだ。

 彼らは、エサを食べず、フンをせず、煩くなく、散歩せず、面倒がかからず、云うことを聞いてくれるペットを欲し、そうでならないよう例えば、エサを少ししか与えないでフンをさせずその上元気を無くす、大げさだがそんな暴挙に出るという。ニュースでときどき聞く。

 そんな奴らに、生命を与えるぐらいなら、死なないロボットの方が何ぼかよいではないか。間違った知識がのさばっても構わない。その代わりに幾ばかしかの貴(とうと)い生命が救われるのなら。

 ペットが単なる癒しに成り下がるぐらいなら、或いはイミテーションもあってもいいのかもしれない。

 ペットを飼おうと思っている方は、是非一度ロボットの購入の検討あれ。

文化とカルチャー

2003年4月5日
 レストランなどで、洋食を注文する。例えばスパゲティとしよう。数分後、目の前にはスパゲティが現れ、ついでにフォークが添えられる。

 日本人にとっては、少なくとも日本人である私にとって、スパゲティをフォークで食べることには不慣れだ。箸を使った方が実に使いやすい。平凡なレストランであれば、頼めば箸を出してくれるだろうが、伝統を重んじ、正装でないと入れないような高級料理店ではこれが許されないそうだ。

 他にもスープを口で啜ってはいけなかったり、茶碗蒸しをスプーンで食べてはいけなかったり。

 文化を伝統で縛ること、何と愚かな行為であろう。

 “文化”とは人が生きる上で得られた知恵であり糧である。知恵とは利便性を追求したもので、人に不便を与えるものではない。なのに、複数の文化か混じる―――例えばスパゲティをフォークが箸で食べる―――ことを何故か禁忌としタブーとする風潮がどことなく見られる。

 先人の知恵に伝統は寛容でない。情けないことだ。

 食べ方だけでない。礼儀から宗教、言語、思想、そして些細な仕草においてまでこれを互いに受けいられず対立する。文化を均せ、というわけではないが、この国際社会にそんな反発があっていいわけがない。

奇跡の二者択一

2003年4月4日
 “奇跡”という言葉がある。我々の常識と想像を遥かに超越した出来事に符合する。

 しかし、如何なる奇跡も“偶然”という言葉に納まるものではない。奇跡は“必然”という言葉に当てた方が却って正しいのではないだろうか。

 生命が誕生したこと。金星は太陽に近すぎ、しかし火星は太陽から遠すぎた。その中間に与えられた地球だからこそ生命は誕生できた。奇跡である。

 だが、その場所にあったから生命は誕生してしまった、とマイナス思考で考えればその出来事は必然である。奇跡は常に必然を取るのだ。

 バイロンの事実は小説より希なり、云いえて妙である。

目と鼻の先

2003年4月3日
 我が家から2、3歩出れば現場、という近所で通り魔事件があって、今もパトカーやヘリがいます。今、(興味本位の野次馬として)調査に行こうかと困惑中・・・(^^;;;)

鼾を科学する

2003年4月2日
 今日高校の入学式があって、とうとう私も高校生になってしまった。得たものより失ったものの方が大きい気がしてなんか悲しい。(は?)

 と云っても、うちの学校はエスカレータ式(エレベータとどっちが適切なんだ?)の私立で、校舎も講堂も殆ど変わらないから新鮮な思いは余り無いのだが。他の連中も同じようで、式中緊張した気配もなく、中には鼾臥している(※古語)人もいた。

 鼻を干す、と書いて“いびき”と読ませる。その語源は“漢字源”によればイビキの音が“干[ハン]”という音に似ているための擬声語らしく、特に深い意味はないようだが。

 漫画などで大きな鼻提灯を膨らまして眠る描写がたまにある。スヌーピーの体勢で大きな風船があると素晴らしいのだが、残念ながらその光景は見たことが無い。物理的に実現不可能なんだろう。

 この鼻提灯は実に科学的である。鼻提灯を膨らましている人は実は鼾をしない。何故なら、鼻提灯は、鼻呼吸だからこそ有り得るものなのだ。鼻と口を同時に呼吸する人は、循環呼吸のできる管楽器の名奏者で無い限り滅多にいないだろう。

 一方口呼吸でガバーっと口を開ける人は鼾をする。口蓋が振動するためだ。つまり、鼾は口呼吸、提灯は鼻呼吸なのだ。

 さて、どなたか口にマスク、あるいはガムテープをつけて眠ってもらいたい。口呼吸ができないがゆえに鼻呼吸にならざるを得ない。

 そして協力者にその光景を観察してもらおう。立派な鼻提灯ができることであろう。

 但し、問題点が1つある。鼻提灯は鼻が詰まっている人特有で、口で呼吸できずに鼻が詰まっていたら・・・どうなるかは目に見えて判る。

四月馬鹿

2003年4月1日
 桜も咲き、月も廻って明日に入学式を控える今日の日付は4月1日。通称エイプリールフール。とはいえ、そんな事実は誰しもが忘れていたようで騙してくれた人は誰もおらず、ピエロに徹することは決して無かった・・・。

 本当は今日“嘘か真か”を議論したかったんですが、ネタが無くて(^^;;;)どこぞのリアルとバーチャルを取り違えた人々が、またまた秩序に混乱を招いた(⇒http://www.tanteifile.com/tamashii/scoop/0304/01_01/)ようで、冗談としてはまぁ面白いだろうと思いますが・・・しかし、私は楽しくない嘘は好きじゃありません。

 騙されて楽しい嘘、例えば代数のパラドクス。

 a^2-a^2=a^2-a^2

 この等式に何の問題もない。(“x^y”はxのy乗という意味)

 a(a-a)=(a+a)(a-a)

 ところが、このように因数分解してしまうと(a-a)が相殺されてしまうから、

 a=a+a
 1=2

 なんていう有り得ない式が発生してしまう。楽しい“嘘”です。理由は云うまでもないでしょう。

 無限論的嘘もその1つで、

 出発地から目的地まで向かうとき、その中間は必ず通る。その中間と目的地までの中間もまた通る。その場所と目的地までの中間もまた通る・・・なんてやっていたら、いつまで立っても目的地に辿り着けない。

 なんて“二分法”も、楽しい嘘。

 他にもルイス・キャロルのパラドクス(正方形を裁ち合わせると面積が増えてしまうパズル。適当に検索をかければ多分見つかるでしょう)これも楽しい。

 ただ単に混乱させる嘘でなく、後味の素晴らしい知的な嘘を誰か私についてくれないだろうか。

 現在の時刻、23時58分。

 この時刻は正確ではありません。

2003年3月31日
 ダイエット案を1つ。

 カロリーの高い美味しい食べ物を買う金があったら、ミネラルウォーターのペットボトルを2,3本買う。重いからこれ以上手にする気はなくなるだろう。

 美味しい食べ物を食べる暇があったら、そのミネラルウォーター(水道水よりは味気があるはず)をがぶ飲みしよう。すぐに腹が膨れてこれ以上食べる気はなくなるだろう。

 オマケとしてミネラルウォーターに塩を加えよう。塩辛いがために、普通の水が飲みたくなり、且つ脱水症状を起こすためタラフク水が飲める。

 とりあえず食欲は湧かなくなり、しかも低カロリー。加えて胃や腸に優しくてお通じもよくなる。

 後は適度な栄養を取ればよい。但しサプリメントは反則。

 私はダイエットするほどおデブちゃんじゃないから試す機会はない(挑発)ので、誰かこの方法を試して見てください。

桜の季節

2003年3月30日
 今日まで親戚連中で掛川にあるリゾート施設“つま恋”(⇒http://www.tsumagoi.net)へ一泊してきました。浜名湖の桜がよかったです(爆)

 山村美紗の“花の棺”で合歓の里が舞台になっていたから、ヤマハが音楽関係だけでなくスポーツ関係の事業もやっていたのは知っていたけど、このつま恋もヤマハが運営していたとは・・・知らなかった。まぁ、豊田も繊維工業から自動車工業に変わったわけだし珍しいことでもないのかもしれない。

 それなりに広いところで、馬に乗れたり、弓を撃ったりと、結構な施設があって一泊軟禁されてしまいました(笑)

 つい先日まで梅が満開になっていたと思ったら、高速のインターチェンジの浜名湖(つま恋とは無関係^^;)ではもう桜が咲いていました。生憎の花曇でしたが。美しい花と壮大な大空が両立することはないようです。

 桜にその美味い蜜を吸うヒヨドリやスズメやらが屯していました。やっぱり桜には小鳥じゃないと絵になりませんね。花見連中は消えてほしいものです(爆)

無味乾燥

2003年3月27日
 “有意義”という言葉の意味を考えてみる。

 今春休みだが、はっきり云って暇だ。勿論、もうすぐ高校に進学するわけだから、予習復習をやっておかなくてはならない。だけど、やる気が出ない。趣味にウツツを抜かすにしろ、その趣味さえも価値が見出せない。

 “価値”。平凡な人生を生きたい、という言葉をよく聞くが、しかしこのただ広い世界の凡人として、歴史の片隅にさえ残らずに消えていく運命は余りに無価値。面白くない。

 社会を無味乾燥に輪廻させるだけでは、縁の下の力持ちでは歴史に消えていくのは必至。仮令、単なるサラリーマンでなくエリート族の医者や弁護士になったとしても、結局歴史的価値は何も生み出せない。自己満足したいならそれでいいが、その人生は決して有意義なものではない。

 スポーツに明け暮れる。これも自己満足だ。好成績を出せば“記録”として残るが、だが歴史に残るだけの価値は無い。多少アイドル的存在として他人の人生を揺るがすこともあろうが、同じ理由で有意義ではない。

 エンターテイメントでも生み出すか。メディア媒体は芸術から娯楽に至るまで選り取りみどり。いや、結局は忘れ去られる運命にある。千年前の絵画など考古学的価値しか見出せない。

 理知的なもの、つまり数学や物理学の理論でも発見するか。いや、そんなもの一部のマニアが受け継いで終わりだ。基本理論は既に古代の天才たちによって発見し尽くされている(といわれている)。

 “有意義”というものは実に得ることができないものだ。こんなことを無駄に考えているのもまた有意義でない。

 どれをとっても面白くない!結局それに終始する。

合格者数

2003年3月26日
 塾とか予備校とか通信教育とか、住所を教えていないはずなのに案内の手紙を送ってくる。こういう資源を無駄にするために個人情報を調べ上げる徒労には呆れてしまう。

 ところで、文面に決まって書かれているのが有名大学の合格者数だ。“何某大学の50%が我が○○を受講している”てな感じで。“今のままではいけない”“戦いはすでに始まっている”などといった不安にさせる言葉に添えておけば大半の愚か者はイチコロだという。

 だが、この“合格者数”は信用できるものなのだろうか。よく考えてもらいたい。その数値に入っている者たちは確かにその教育によって歩を進めたのかもしれない。

 しかし、だからといって“その教育を受ければ志望校に合格する”という統計的評価が得られるわけではない。

 例えばAという通信教育があったとする。その通信教育は千人ほどの生徒を抱えており、そのうちの100人が倍率の高い有名大学に受かったとしよう。

 100人も有名大学に進学できたのだからそれは素晴らしい快挙だ。但し、その人数はAの僅か10%だ。凡人がこの10%に入るには、やはりAの教育の有無に関わらず勉学に勤しむしかない。

 結局のところ、“某有名大学に何名が合格した”ではなく“全受講数の何パーセントが某有名大学に合格した”の方が統計的に信頼できるのである。

 確かに東大や京大へ何十人も輩出できたとなれば、その教育には中々の良さはあるが、だからといってそれを真に受けるのも考え物である。

絶対的存在

2003年3月25日
 空間が生きているからこそ時間が経るのである、が現代物理学の考えの一であるという。では、時空間がお互いに持ちつ持たれつの関係になかったらどうだろう。つまり、片方は常に固定されているとする。

 この大宇宙のちっぽけな我々、という存在まで考えるのは億劫なのでとりあえず空間を星々だけというマクロ視点で覗いてみる。4つの力の1つ、重力によって恒星と惑星が干渉しあっている。但し、一銀河さえも他の大銀河の力に影響を及ぼされることを否めないので、ここで超重量の空間に固定された存在を用意する。この存在はどんな星によっても(マクロ視点では)不動である。

 この存在を“神”と名づけよう。全ての恒星の位置は神によって与えられ、その恒星によって惑星は突き動かされる。

 が、この移動さえも固定してしまう。彼らは神の力によって軌道を書かない。星々の距離は変わらないし、例えば海王星と冥王星の位置が逆転することなどない。要するに空間は死んだ状態になり、時間が歪んでいるわけである。

 ミクロ視点に変えてみる。単に時間が歪むことによって我々の位置は固定されるのだから、地球上のどの部分に移動するにも自分は運動してはおらず、単に時間が歪んで相手が近づいてくることになる。勿論エネルギーなどという概念は消滅し、固定観念は豹変することになるだろう。

 空間と時間は決して持ちつ持たれつの関係になく、或いは片方は存在し得ない。まさにその絶対的存在は“神”の名に相応しい。

羊パズル(駄作版)

2003年3月24日
 ネタが無いので、今年の初めに出題した羊パズルの駄作版でも。

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 百八つ目の鐘と、十二の時計の鐘が鳴った。正月の到来を噛み締めた貴方は、初詣に備えてさっさと床に就くことにした。ところが中々眠ることができず、定番の“羊の数”を数えることにした。

 ―――ヒツジガイッピキ・・・ヒツジガニヒキ・・・

 貴方は2003匹数えてやっと眠ることができた。それぞれの羊に息継ぎとして1秒を与え、また1つ発音するのに0.2秒かかるとすれば貴方は何時ごろに眠れたことになるでしょう。

 勿論、数え始めは夜中の十二時です。

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 日本語の数え方について色々勉強になるんだけど、ややこしすぎたから没にした問題です。

 興味のある方はチャレンジしてください。(私のやる気がないから、解答&解説は期待しないように^^;)

夢の第三者

2003年3月23日
 夢を見ることにある疑問を感じた。夢は極めて客観的で、第三者が眺めている映像なのである。本来自分自身が活動するならば、自分の顔は見えないはずで、後ろ側は見えないはずだ。ところが今日見た夢では、自分の立っている場全体を見下ろしていた。

 思考するのは明らかに自分なのに、視点は他人のものなのである。そして気づいた。夢とは映画なのだ。映画の中に出てくる自分というキャラクターと共感し合い、映画に感情移入した自分が活動する。そして、我々はその世界の外から見ている。

 よく、夢か現(うつつ)かわからないという話があるがあれは嘘だ。現実は映画の中で、夢は映画の外に自分がいるのだから。

武器

2003年3月22日
 武器を持つことも難しいが、武器を持たないこともまた難しい。

 米が先日イラクに宣戦布告した。私はこの戦争に賛成はできないが、とはいえ支持しない気でもない。自然界で人が得た唯一の武器である“口論”で収拾が付かないなら、あとは拳を握って“武力”で解決するのは当然だろう。

 小泉総理がそれを支持したことを表明したとき、それに文句を言う国民たちや野党がいたそうだが、偽善だ。戦争を止める為に何か活動をしていたか。諸外国に日本の一国民として、支援をしたか。彼らは蚊帳の中で血を流さずに喚いているに過ぎない。

 戦争反対のデモが各地で行われているニュースを見るとオカしくて堪らない。あれは、戦争によって崩壊しかけている秩序に追い討ちをかける行為だし、戦線に立っている者たちに挑発をしているようなものだ。やめろ、と云われてやめるような奴はいない。デモが続き、その勢力が増せば逆に戦争も激しくなるに違いない。

 武器を持たない、持てない、持ちたくない我々が戦争に関与する方法は難しい。文句を云っても戦争を逆撫でするだけだし、他に解決する策も特に無い。となると、何もしない、できない我々は上の方たちに全てを任せて、傍観、黙認することが最良ではないか。戦争をやめさせるのではなく、早く終わるように祈るのが我々のすべきことではないか。

 テレビの中で嬉しそうな顔をして暴れている学生たちを見て、ふと思った。

リンカーネーション

2003年3月21日
 魂の存在と、同時に輪廻転生を認めるものとする。

 即ち、全ての魂には前世があり、必ず生まれ変わるものがある。

 自分の前世は何だったのか考えてみよう。歴史上の超有名なあの人でもいいし、野山を駆け巡るあの動物でもいいし、細胞やその構成部分、そして素粒子までも生き物と見るのならばミトコンドリアでもいい。

 兎に角この世の始まり、負の時間の果てまでに遡るまで、我々には前世があるのだ。様々な宗教が前世を扱っているが、前世の必然性を物語ってはいないが、しかし自分に前世があることを是としているのが普通で、前世が無いのは不合理である。

 つまり、この世界における魂のプールは不変なのだ。

 では、この“魂”とは何なのだろう。“自分”という人間を見てみても、その“人間”という一生物の中には、寄生虫や中枢神経系を借りて生きるモノたちがある。所謂共生というやつで、ミクロ単位で見たら細胞さえも生物に思えてくる。

 生物というものをしっかり定義する必要がありそうだ。“脳”を持っているもの?脳は脊椎動物しか持っていない。無脊椎動物も一部は脳を持っているが、他には神経系という形でしか脳を持っていない。海綿や原生動物のような下等生物はそれさえも持っていない。アメーバーがいい例だろう。このような原虫は単細胞である。つまり、細胞も生物として認め得るのだ。

 我々の体は、どうやら幾つもの“魂”が蠢いているようで、来世には様々な生き物になる資格があるらしい。

選り好み

2003年3月20日
 ああ、終に今日を以て中学生を名乗れなく(正確には来月からだが)なってしまった!別に中学生であることに何の愛着も持ってないけど、しかし何だか勿体無い。この勿体無さはどこからくるのだろう。

 小学校時代の旧友の1人が、高校受験がしんどかったと愚痴を漏らしていた。自堕落で素行不良の私でも、勉強せずとも小学生のとき取った杵柄によってエスカレーター式に高校へ昇れるが、受験で頑張っていた彼らを見ていると何だか歯痒くなってしょうがない(わけでもない)。

 まぁ、自分も小学校の頃頑張っていた(気がする)わけだし、他人事とするのが最良として傍観していた。

 毎年のことだが、進学あるいは進級するということは肩書きを捨てるということである。この社会にいる時点で、否応なく課せられるもので、肩書きは云わば何よりも勝る絶対の義務だ。それを捨てるということは義務の束縛から解放され、新しい束縛に身を投じることである。

 新しいの束縛は、選り好みできない。ある程度の意思で変えることは出来るが、時間は常に流れてしまう。一方、“今の束縛”は時間とともに心身に馴染んでいき、新しい束縛よりも苦痛はもたらさないはずだ。

 愛着はなくとも勿体無く感じることは当然なんだろう。

功罪

2003年3月19日
 インターネットで様々なホームページを見ていると、時々“藁”とか“鯖”とか、意味不明な単語が出てくる。文章の前後からして、“笑”、“サーバー”を意味することが把握できる。他にも、“アカウント”は“垢”とか、“プロクシ”は“串”とか。

 知らない人にとっては、忍者言葉宛(さなが)らの隠語である。私は、この言葉群が好きになれない。というより、嫌いだ。別に喧嘩を売っているわけじゃ無いけど、これらの隠語に何というか“良い”センスが余り感じられない。

 隠語は、言葉の技法の1つ、掛詞を要素に持っている。例えば小野小町の“わがみよにふる ながめせしまに”の“ながめ”には“眺め”と“長雨”の二種類の意味を持っているように。

 云ってしまえば駄洒落なんだが、とはいっても親父ギャグなんかではない。古典的な“ふとんがふっとんだ”でさえ、“ふっとんだ”に2つの意味を持たせている。

 だが、“藁”はどうだろう。こんなのは掛詞でも駄洒落でも親父ギャグでもない。単なる当て字で、何のヒネリもない。“笑い”と“藁”を結びつける要素は単に読み方が同じである、というだけだ。(探せばこじ付けみたいな話はあるだろうが・・・)

 更に勘繰ってしまえば、コンピュータで打ち込んで変換したら、難しい漢字が出てきて何と無く格好よさそうだったから使ってみた、なんてさえ思えてしまう。

 漢字という記号はそれぞれに意味を持っている。それらを何の関連性も無しに当て字として乱用するのは、日本語を“借りている”日本人として恥ずべき行為だ。

 しまいにゃ“行く”を“逝く”とまで当てる悪趣味な誤用さえ見かけるが、ここまできたらもうその人は日本語を使うべきではない。日本語と漢字を培ってきた歴史に対して失礼極まりないことだ。

 様々な漢字が、ボタン1つで出てくるという利便性が生んだ功罪であろう。

ロードオブザリング

2003年3月18日
 映画ロードオブザリングの第二部、二つの塔を観て来ました。流石トールキンの原作だけあって、内容、質ともに素晴らしい出来。

 上映時間も第一部と同様滅法長いんですが、はっきり云って短過ぎると思わせるほどの映画でした。DVDを買うとしたらノーカット版を買わなくては(^^;)

 ハリーポッターと違って、多くの種族が入り乱れたる戦争絵巻、戦士がぶつかり合う剣と魔法の世界・・・ハリーポッターと同じファンタジーのジャンルに入れるのは勿体無い気がしてくるほど。(ハリーポッターはそれはそれでいいんですけど)

 世界観や人間関係が少し複雑ですが、これは観なきゃ損でしょう。通常のチケット代ははっきり云って安いです。

 ケチをつけるとしたら、主人公であるフロドが余り活躍していないことだったでしょうか。ヘルム峡谷の激戦(素晴らしい出来です)に押されて、二つの塔の片割れであるアイゼンガルドの戦い(これもSFX的な魅力満載なんですけど)や、オスギリアスのナズグルの襲撃が今ひとつ・・・もう一つの塔であるモルドールには足を踏み入れていないし。タイトルと余り合致していません。

 指輪の無い戦いもそれはそれで面白いんですけどね。(というか第二部はそういう話)

 しかも、最後は完結させずにいいところで続きにして・・・(原作ではこの続きも第二部に入っているそうだが)こんなんじゃ1年も待てないじゃないか(^^;;)

 まぁ、原作を読んでいないから偉そうなことは云えませんが、兎に角これまで観たものの中でもベスト3に入れてもいい映画で、文句無しで5つ星でしょう。

 後悔するので、絶対に観ることをお勧めします。

ムービングタイル

2003年3月17日
 アクションゲームの中で、タイルが左右に動き、その上にキャラクターが乗る、という移動手段がある。その上で、ジャンプをすると、タイルだけが先走って振り落とされる。

 ・・・この仕様をよく見る(そうでないのはプレイしたことない)が、現実的におかしくないだろうか?移動する物体の上では、“飛び降りない”限り振り落とされることは無い。電車の中でジャンプしても、自分がそこで静止しないことと同じ、経験的事実である物理法則だ。

 この物理法則を是とすれば、アクションゲームの仕様は間違っている。

 まぁ、仮想空間なんだから何をやってもいいのではあるが。

好評発売中

2003年3月16日
 本やゲームやCDや、しまいには文房具から食料品まで、世の中に数多く流通しいている“商品”の宣伝に付いてくる決まり文句、“好評発売中!”

 大半は“嘘”であろう。発売日からいきなり“好評”であったり、どう考えても大衆向けでない商品でも“好評”であったり、かなり年季のいっちゃっているものであってもまだ“好評”であったり。

 開運商品と同じくらい疑い深い文句だ。

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