夢日記

2004年11月11日
 最近書くネタが本当に無い(切実)ので、ふと昔書いていた(らしい)夢日記なるものを開いてみた。まだ自分が瑣末なことに気をとられて生きていた時代、裏でこそこそ何気なく書いていた備忘録集である。

 夢と言うのは現実世界よりも極めて身勝手なもので、どんなに面白い小説よりも、本人にとって果てしなく楽しいサスペンスを見せてくれる。しかも、それは現実に戻ってみるとすぐに忘れてしまう。誰も昨日みた夢など覚えていない。

 それを逆手にとって、夢日記なんてものを考案したことがあった。つまり、朝目覚めたらその夢内容を即座にノートするのである。まだまだ夢の記憶が鮮明な寝ぼけ眼の時にである。

 そして、気付くのだ。何とも身勝手な夢を自分は見ている。ファンタジーの世界に溶け込んだそれは、脈絡のない展開と、伏線のない遭遇に満ちていて、そして人を敢えて戦慄させるサスペンスの様相を呈しているのだ。

 そんな展開だからこそ、言葉にするのは難しい。人の想像力は極めて豊か。夢とは虚無の映像であり言葉ではない。だから、その世界は現実世界には言葉にならない物質世界であり、現実的な人間から見てそれを表現する動詞は持ち合わせていないのである。

 自然、夢日記も破綻した小説に変わりなく、今読み返してみると、自分の稚拙な想像力に苦笑し、そして有り得ない展開模様に微笑さえ覚えまい。

 でも、だからこそ備忘録としての役割は果たしているらしく、面白い。繰り返すように、夢とはすぐに消滅し、忘れてしまうものだ。つまり、夢日記にどんなに記したとしても、時が経てばその内容もいつかは忘れる。だから、読み返したとき、今までに触れた事の無い新作小説かのように、拙い文面を楽しむ事ができるのだ。

 最近は現実的な瑣末主義に陥っているらしく、そういうものを記す余裕がないほど心が荒んでいるらしい。夢日記を付けようとも思わないし、おそらく起きたその瞬間に、夢の事象など枯渇いて書きようも無いだろう。

 でも、人間それでいいのだと思う。「矩を超えず」というのは果たしてそういう意味なのだろうし、それがグロウアップというものだ。

 そう、決してネタのない言い訳ではないのだ。書けないんだからしょうがない。曰く、この土地も昔は夢日記だったそうだ。ネタがないのは、君が夢を見ていない証拠だよ、と誰かが囁いている気がする。

 わけもなく悩むのはもう辞めよう。

NOW HERE

2004年10月15日
 金八先生の第7シリーズが始まった。今度の3Bは史上最低!とか新聞に書かれてたんで、いっつも最低じゃん、なんて思ってたけれど・・・ホントに最低だ(笑)これは中学生と言うよりは小学生、いや幼稚園児のクラスじゃないのか。壮烈に破天荒なクラスですな。

 思えば第5期を小学生、第6期を中学生でリアルタイムに見てきて、もう今は高校生・・・いまどきの中学生を風刺した(?)金八ドラマに共感する世代では無くなっているわけだ。世代的に今度は見下げる立場になっていて、何だか青春に取り残された感じがして寂しい。

 歳をとったせいなのか知らんけど、観てて疲れた・・・最初っから最後まで、もう3Bメンバー若すぎ。はしゃぎ過ぎ。あんなにテンション高いと、おじさん付いていけないんですけど。こんなん2時間SPでやられたら老体にはきついきつい。

 なんていうのは冗談にしても、週末の10時から見ていくのは辛そうです。思えば今までの金八生徒は、悪ガキではあったけど、頭は実にbrightだったからなぁ。健二郎がまさにそれだし。

 テーマとしては、家庭内暴力に発達障害、麻薬と出揃っているようで。また一風変わったクラスで楽しめそうです。気力さえ持てば(笑)

 今回国語教師金八先生が持ってきたネタは『いまここ』だった。「今ここにい続けるものはない。無常。」といった感じで、まあありふれた話?3B生徒が茶化すもんだから、折角のいい言葉が台無しやねん。

 ふと思った。『いまここ』を英語に訳すと“NOW HERE”になる。これをつなげれば“NOWHERE”、つまり『どこにもいない』だ。英語にも共通した無常に気付いた。

生物

2004年8月24日
 ○ペットショップの前を通りかかると、『値下げしました』のシールが貼ってある。老いることで商品価値が低下した生き物を対象としている。

 ○手塩にかけて育てれば育てるほど、血統という付加価値を持った商品の値段は下がっていくという逆説的な様相を見せる。生ものの存在価値は時間と共に失われていく。

 ○『値下げしました』のシールを他所に、その意味を知らず目の前にいる第三者に媚びる姿は哀れさを通り越して惨めである。しかし誰の目にとっても可愛い。

 ○生物を怖いと感じる心はあっても、嫌うという心はない。あればそれは前者の錯覚である。人の心とは概してそういうものだ。生理的嫌悪と言うのは一体何のことを指すのであろう。

天才

2004年7月28日
【タイプ1】

 一人の秀才がいた。
「君頭いいよね、羨ましいよ。」
 という周りからの声に対して、
「凄いだろ、日ごろの成果さ。俺は皆とは違うんだ。」
 と彼は誇らしげに自慢するのだった。

【タイプ2】

 一人の秀才がいた。
「君頭いいよね、羨ましいよ。」
 という周りからの声に対して、
「それほどもないよ。」
 と、照れるだけだった。

【タイプ3】

 一人の秀才がいた。
「君頭いいよね、羨ましいよ。」
 という周りの声に対して、
「別に僕が頭いいわけじゃないよ。皆の頭が悪いんだ。」
 と、彼は謙遜するのだった。

【タイプ4】

 一人の馬鹿がいた。
「ちょっとは勉強したらどうだ?」
 という周りからの声に対して、
「別に僕が頭悪いわけじゃないよ。皆のアホさ加減についていけないだけなんだ。」

個と種

2004年7月24日
生態系という偽善を称して、不自然な均衡を保たれる『種』
食っては食われ、食っては食われ、ただ現状維持を目的に生きる毎日
その影に死んでいく者は幾千とあるのに、彼らは種の一部であり、
『個』として認められない
個人が認められたのは人だけだ
何よりも不自然な個と種の間に人は生きている
だから人は人間と呼ばれる
しかし、いつの日か超越人たる傍観者は現れ、天敵を人間に与えることだろう
さもなくば人の数は調整されない

特権

2004年7月19日
 
人は自分に課せられた特権に気付くべきである
特権とはその人でしかできないことのことである
特権は時を追って消滅することがある
また時が経たないと出没しない特権もある
然るに特権とは時間制限のついた爆弾である
時間内に気付いて対処しないと絶対に損をする
誰も気付かぬままに

不眠症の夜

2004年7月16日
 眠れない夜は、全ての要素を障害と思う。

 窓から差し込む街灯。夜道を走る自動車の気配。室内におぼろげに光る家具。自分自身の身動きが為す物音。一挙手一投足と意識すればするほど激しくなる呼吸と鼓動。全てが眠りを阻み、苛む。

 その夢遊病者が床で悶々としていると、猛暑の中開かれた窓の外から、国道を走る暴走族の音を聞いた。不必要なまでに過剰なエンジン音は、夢遊病者の眠りを妨げる。

 消えろ。

 そう思った刹那、エンジン音とタイヤの軌跡は消滅した。まるで空耳であったかのような錯覚を受けた。空耳というには語弊がある。音が消えてしまったのだから。

 消えた理由はわからないが、兎に角夢遊病者は再び眠りに就こうと努力した。夏の暑さと、窓から入る街灯の光に耐えながら、必至にイマジネーションを否定して無心になろうとする。だんだんまどろみかけたそのとき、再び車が放つ音が耳に入った。

 救急車のサイレンだ。真夜中は、真夜中だからこそ事故が起こりやすいのか。不眠症の夜は初中救急車や消防車のドップラー効果を聞く。当人達にとっては一大事であろうが、一般車両や暴走族のエンジン音にならんで、眠りを妨げる障害の一つだ。

 サイレン音とその赤い光を鬱陶しがる夢遊病者は再び思った。

 消えろ。

 その瞬間。音は消えていた。サイレンは消滅したのである。しかし、赤い回転光だけは消えていなかった。光害の要素である街灯を遥かに超越して気になる光だ。

 消えろ。

 不思議なことに、障害の消滅は当然のものとなっていた。赤い光は消えた。ついでに街灯も消えていた。

 夢遊病者の五感は完全な無を感じていた。安眠を許された彼は、まどろみ、眠りに就く。

 永い眠りに就いた彼が、二度と起きることはなかった。

 (改題夢遊病者の死)
 人の背筋は曲がっている。老化とともに、進行は加速する。しかし、何故猫背になるのだろう?猫背になるためには、長時間その体勢になって、体に癖をつける必要がある。日常生活において、猫背になるような体勢を人は取るだろうか?

 ある日、浴室で髪を洗っていて思った。髪を洗う際、シャンプーその他が顔に流れるのを極力避けるため、前にかがむ。しかし、よく考えるとこの体勢は極めて不自然だ。いわゆる腰が引けている。

 髪を洗う体勢が猫背の原因になっている・・・髪を洗うことが猫背にしている。ふと疑問に思った。人が髪を洗うことを覚えたとき、猫背となる道に進んだんではないか。これは極論だろうか。

 若すぎる子どもは、例の『目にシャンプーがしみらない』と称して、髪を洗うときは帽子のようなものをかぶっている(かもしれない)。しかし、それが取り去られ、熟考の内に髪をせっせと洗うようになり、結果。猫背になるのだ。

 誰が検証してみてはいかが?(笑)

二分

2004年7月5日
 
世の中の人間は次の二つに二分され、
両者は決して同一しない。
即ち、
敬語を使われる人間と、
敬語を使わせない人間と。
誰よりも魅力的な人間は、
おそらく優れた後者の資格を持ち得るだろう。

 

献金

2004年5月23日
 人ごみの多いとある街中で。

 数人の子供がバラバラにあちらこちらを走り回っていた。

 彼らには両手に支えた胸元に小箱が備わっていた。

 いぶかしげに眺める通行人たちに子供たちは駆け寄り、そっと小箱を差し出す。

 子供は一枚のビラと引き換えに、通行人から小銭をせしめていた。

 ビラには、大きな文字で『愛』。裏面にはびっしりと細かい字で愛や平和について書かれている。

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 年端もいかない子供を募金に使うなんて、ずるいよね。それも小学校の児童会とか、そういう企画ならまだいいけど、どこぞの平和だの叫ぶ理解しかねる非営利団体の活動に、ボランティアという言葉の意味をまだ理解していない(であろう)子供を用いるなんて。

 そういうのに募金するには、募金する側にある程度の理解が必要だろう。二束三文とはいえ、出費するわけだから、その募金活動の趣旨に賛同して、小銭を渡すわけだ。

 しかし、子供ではどうだろう。チラシを渡されて、積極的に小箱を突き出される。この状況で、大抵の大人は募金せざるをえないだろう。相手が大人であれば、断ることも可能だが、相手が子供だと断りがたい。募金してあげなきゃかわいそうだな、という憐憫の情が芽生えてしまう。

 だからその募金の趣旨がどんなに賛同しがたいものであっても、強引に賛同しなくてはいけない。これは募金活動としてあまりにアンフェアではないか。

 その子供たちの周りに、それを暖かく監視している大人を見つけて、ふと思った。

危ない

2004年4月23日
 朝。とある道路で、

 「こら、危ないでしょ!」

 と、子供をたしなめる母親の声が聞こえた。どうやら、車がビュンビュン走っている道路を、幼稚園児が渡ろうとしたらしい。

 そして、車の往来が引くと、母親は子供を引き連れて渡っていた。横断歩道でもないのに。

 ・・・これってどうかね?園児が平気で車が走っている道路を渡ろうとしているってことは、つまり習慣化しているということ。いつ事故に発展するかわからない。

 大体、子供を引き連れて信号の無い道路を渡るなんて危険じゃないのか、教育的にも。ここは少し迂回してでも、信号のある横断歩道で青になるのを待つのが正解だと思うのだが。

君が代

2004年4月8日
都立校教員ら180人処分 卒業式の「君が代」不起立で [朝日新聞]
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200404050341.html

 たかが「君が代」なんかのために、懲戒ですか?

 起立不起立に拘る国も教育委員会も学校も教師も何から何までバッカじゃないの?

 戦争を経験しているわけでも、戦争を経験している親を持っているわけでもない学生の身分から言わせてもらえれば、「君が代」なんて「校歌」や「蛍の光」や「仰げば尊し」なんかと同じ『唄』の一つでしかないわけだし、その深い深い意味を知って歌っているわけでもない。

 ましてや、『思想の自由』だとか、『戦争時代を彷彿させる』とか、そんな馬鹿馬鹿しいこと考えてません。なんたって学生は『ガキンチョ』にすぎないんですから。

 それを、よくもまぁ起立不起立で騒げるものだ。お互いに反発し合う教育委員会と教師連は、一体何を考えているのだろう。『思想の自由』が妨げられる?馬鹿なこと言ってくれる。式中の重大な儀式である(儀式といっても「仰げば尊し」なんかと一緒で他意はない)から、起立して斉唱することは当然だし、逆に立たない方がどうかしている。

 一方で、立つことに『戦争時代を彷彿させる』とか、そういう悲劇が裏に隠れ潜んでいるなら、それを考慮して教育委員会も何とか定めるべきだ。「学校の方針に任せる」、単純だけどそれで十分じゃないか。何度も言うように、生徒は式という行為自体かったるいと思っているのが大半だし、たかが唄でどうこう悩むことは無いのだから。

 学校は教師のためにあるわけでなく、生徒のためにあるのだろう?それとも何だ、生徒に君が代の陰惨な背景を引き継がせて、正体不明のトラウマを引き摺らせるのが目的なのか?

 こういう強情極まりないニュースは聞いてるだけでも馬鹿馬鹿しい。

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