人文科学
2006年6月26日 サイエンスを学んでいる人間として、心理学というのはどうもよく理解できない。文学者が科学者の手法を真似て、無理やり学問に仕立て上げているきらいがあって、肝心な所で厳密性に欠けるものだから、ついつい詰めが甘いとか思ってしまう。一方哲学的な論理性があるかといえばそういうわけでもない。
そんな感じで心理学に興味を覚えないものだから、認めたくはないのだが自分はやはり数学的気質に満ちているのだと思う。教養の意味で心理学や哲学も勉強したいと考えているのだが、大学でそのような研究をしている人の講義を聞くと、ついつい満ちたりなさを感じてしまう。もちろん、単なる90分の講義で学問の全てを学べるわけではないから、この不満には誤謬を孕んでいるのだろうが、それでいても数学的厳密性のある科学を求めてしまう。
最近面白いと思っているのは言語学だ。一般教養の科目で哲学や心理学や言語学を簡単に触れてみたが、言語学が唯一、斬新な感銘を受けている。
自分は数学的気質を持ち合わせているので、論理学は嫌いではないのだが、言語には論理学にあるような形式言語だけでなく自然言語というものがあることを知った――むしろ、この世に存在するのは自然言語であり、我々は形式言語を使わない。
対偶という概念がある。A→Bは、notB→notAと同値であるというあれである。一方notA→notBは一般に成立しないが、我々は次の事例でわかるようにこの逆という概念を認めている。
日常言語は極めて非論理的な言語が用いられているのだ。非論理的構造を学問として捉える、サイエンスとは別に確立した形態があることを知って面白いと思った。
そんな感じで心理学に興味を覚えないものだから、認めたくはないのだが自分はやはり数学的気質に満ちているのだと思う。教養の意味で心理学や哲学も勉強したいと考えているのだが、大学でそのような研究をしている人の講義を聞くと、ついつい満ちたりなさを感じてしまう。もちろん、単なる90分の講義で学問の全てを学べるわけではないから、この不満には誤謬を孕んでいるのだろうが、それでいても数学的厳密性のある科学を求めてしまう。
最近面白いと思っているのは言語学だ。一般教養の科目で哲学や心理学や言語学を簡単に触れてみたが、言語学が唯一、斬新な感銘を受けている。
自分は数学的気質を持ち合わせているので、論理学は嫌いではないのだが、言語には論理学にあるような形式言語だけでなく自然言語というものがあることを知った――むしろ、この世に存在するのは自然言語であり、我々は形式言語を使わない。
対偶という概念がある。A→Bは、notB→notAと同値であるというあれである。一方notA→notBは一般に成立しないが、我々は次の事例でわかるようにこの逆という概念を認めている。
(?)「テストで100点取ったらPS3を買ってあげる」(?)と(?)は同値ではないのだが、子供は愚かなことに、(?)の発言を聞くと(?)の意味を汲み取って、がんばって勉強するようになると言う。
(?)「テストで100点取れなかったらPS3を買ってあげない」
日常言語は極めて非論理的な言語が用いられているのだ。非論理的構造を学問として捉える、サイエンスとは別に確立した形態があることを知って面白いと思った。
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