脱没個性化

2006年6月25日
 批判というのは対象が没個性の状態にあるからできるものだ。確かに批判されるためには極めて個性的な対象が不可欠であるが、それにしても批判する当人にとって、その対象は非難しても構わない存在であり、本質的にはそれを個人として認めていない。個人として認めていながらも非難するのならば、それは人間関係を大切にしていないということである。

 例えば、不喫煙者は喫煙者を批判する。煙草は言うまでも無く害悪である。喫煙者はその害悪に勝る益を得るから喫煙するのだろうが、昨今騒がれているように喫煙者自身でなく受動喫煙という形で周囲の不喫煙者に害悪を与えてしまっており、当然不喫煙者はその害悪に勝る益は得ていない。

 科学的な立証を待つまでも無く、喫煙しない者で煙草の煙を嫌悪しない者はいないだろう。不喫煙者にとって喫煙者の喫煙は迷惑極まりない行為である。だから不喫煙者は喫煙者を非難する。

 しかし、不喫煙者の代表として思うことは、仮令公然と喫煙者を非難できたとしても、その非難は“喫煙者”が“喫煙者”という没個性の状態にある場合だけである。もし喫煙者に、友人とか恩師といった大切にすべき人間関係という性質が備わった途端に、我々は非難できなくなる。

 彼らが目の前でおもむろに煙草を取り出して吸い始めたとしても、煙草は嫌いだが彼らを嫌いになれない限り、そうそう注意できたものではない。喫煙者があって、不喫煙者がそれを咎めていないのなら、それはそういう人間的な配慮があるからである。

 個性を与えてもらっているということは、それだけで幸せなことだ。喫煙者はそれを鑑みて――人間的な配慮に感謝して――煙草を吸うべきなのだろう。あるいは遠慮するべきなのだろう。

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