ゆとり教育に反対してみる
2005年10月31日 最近まで、ゆとり教育肯定派だったが、今日、ある事態に直面して断固撤廃すべきだと思った。難しい勉強のために大切なコトが教えられなくなるぐらいなら、ゆとりをとって教育してもいいと思っていた。もちろん、そういう総合学習的教育が実現できればの話だけれど。でもやっぱり教育は大切だ。特に直感を養う教育が大切だ。
例えば国語は一番直観力を養う学習だ。言語というのは、人間の根本的な知的発想に根強く結びつくものだからである。国語力が身についていなければ読み書きなど到底できない。言葉を話したり、物事を考えたりするために、どのような言語を使うべきか悩んでいたりしては読み書きできないからだ。直感でモノを話さなければ人間としてやってけない。
理科も大切だ。例えばシーソーの原理。中心からの距離とブラ下げたオモリの重さの掛け算が等しくなれば釣り合う。例えばテコの原理。支点力点作用点の三点が関っていて、コレコレこういう掛け算を考えるとどれだけ力が増幅されたかがわかる。こんなことは直感で身についていてもよさそうなものだが、いざ考えてみると不思議な話だ。でも、これを不思議だと思って小難しく考えていれば、理論には結びつかない。直感でその現象を正しいと認めてくるから、それを証明する理論が構築できるのだ。不思議な自然現象を当たり前だと認識させる直感を、幼いうちに養うことは大切なのだ。
でなければ、太陽の周りを地球が回っているなんて直感で認められるわけがない。
でなければ、キリンの首が自然選択によって長くなったなんて、直感で認められるわけがない。
天動説が蔓延して、獲得形質が遺伝してしまう世界になる。
ゆとり教育論争で、一番庶民の心に根強く残っているのは円周率パイの値だろう。昔は3.14と言われ、3桁の数の足し引きなんて大変な計算をやってきたのに、今の小学生は3という一桁の単純な数で計算が認められる。こんなズルイ話はないと思った人が少なくないわけがないんだ。そしてその弊害もわかっているから、論争になるんだ。
整数論の中にユークリッドの互除法という便利な話がある。
18と30の最大公約数を求めろ。
みたいな問題を簡単に解く方法だ。ユークリッドの互除法を使うと、
30と18の差は12だから、18と12の最大公約数を求めればいい。
18と12の差は6だから、12と6の最大公約数を求めればいい。
12は6で割り切れるので、18と30の最大公約数は6である。
こうやって差をとって数を小さくして、最大公約数を求めることができるのである。自慢じゃないが、僕はこんなのは、直感で知ってるものだと思っていた。
それなのに、同世代のある高校生に聞いてみたら、
30と18は2で割り切れる。
30と18は3で割り切れる。
30と18は5で割り切れない。
30と18は7で割り切れない。
30と18は13で割り切れない。
30と18は17で割り切れない。
19は18より大きい。
よって、30と18の最大公約数は2カケル3で6である。
みたいな効率の悪い考え方をしてるのだという。最大公約数を考えてるのに、どうして最小公約数を考えていかなきゃいけないんだろう。馬鹿じゃないだろうか。それじゃあ、デカイ数になったら対処できない。
そして、ユークリッドの互除法という便利な道具があるよ、と教えてやると驚くのだ。知らなかった!そして、その簡単な法則と、予想に反した結果から、数学の、まるで神秘的な公式の一つだと思って暗記するのである。
直感としては身につかないのである。暗記するのである。
言っておくが、ユークリッドの互除法は何にも難しい話じゃない。18と30の最大公約数を求めるということは、要するに縦18横30の長方形を、なるべく大きな正方形で分割しろってことなんだ。縦18横30の長方形は、6×6の正方形で敷き詰めることができるじゃないか。
そこで、当然ながら6×6の正方形で、18×18の正方形を敷き詰めることはできる。だったら18×30の長方形から、もうその正方形は最初から切り落としてしまってもいいじゃないか。詰め込めることはわかっているんだから。
これが直感的理解である。なのに、この直感がないのだ。この直感がないくせに、文字式を一杯使った証明を、数学で教えられる。そこでの感想は、何でかわからないけど、文字で置いたらうまく説明できてしまった、凄いなぁ、である。こんなのわかった内に入らない。
代数的な証明も大切だけど、それはあくまで理屈。理屈と直感が結びついて初めて頭がよくなるというものじゃないだろうか。理屈は数学で、直感が算数なのである。数学はどうでもいいが、算数は生きる上で必要な知恵である。買い物で計算ができない外国人はおかしいじゃないか。
だから、小学生には直感で国語も、算数も、理科も、社会も覚えさせる必要があるのだ。平仮名や漢字がとにかく書ければ、将来読み書きできなくなるなんて事態はありえない。面積を求める計算ができれば、将来積分だってできるようになる。テコの原理を知っていれば、モーメントの意味がわかる。一都一道二府四十三県を漠然とでも知っておけば、道に迷うことはない。
それを疎かにして、中途半端な総合学習とか、英語で会話できたって何の意味がないじゃないか。
直感と理屈が結びつく例をもう一つ挙げてみよう。算数の話をしていたので、やっぱり算数から持ち出してみる。
他にもある。新過程の弊害か知らないが、円周角の定理とかいった初等幾何が中学から高校に移動したらしい。でも、やっぱりこんな話は、無駄に知恵の付いた高校生よりも、直観力の養える中学生に教えたほうがいいんじゃないか。
やっぱり直感を養う教育は大切だ。直観力が養えないゆとり教育なんて馬鹿なこと言ってちゃいけない。
例えば国語は一番直観力を養う学習だ。言語というのは、人間の根本的な知的発想に根強く結びつくものだからである。国語力が身についていなければ読み書きなど到底できない。言葉を話したり、物事を考えたりするために、どのような言語を使うべきか悩んでいたりしては読み書きできないからだ。直感でモノを話さなければ人間としてやってけない。
理科も大切だ。例えばシーソーの原理。中心からの距離とブラ下げたオモリの重さの掛け算が等しくなれば釣り合う。例えばテコの原理。支点力点作用点の三点が関っていて、コレコレこういう掛け算を考えるとどれだけ力が増幅されたかがわかる。こんなことは直感で身についていてもよさそうなものだが、いざ考えてみると不思議な話だ。でも、これを不思議だと思って小難しく考えていれば、理論には結びつかない。直感でその現象を正しいと認めてくるから、それを証明する理論が構築できるのだ。不思議な自然現象を当たり前だと認識させる直感を、幼いうちに養うことは大切なのだ。
でなければ、太陽の周りを地球が回っているなんて直感で認められるわけがない。
でなければ、キリンの首が自然選択によって長くなったなんて、直感で認められるわけがない。
天動説が蔓延して、獲得形質が遺伝してしまう世界になる。
ゆとり教育論争で、一番庶民の心に根強く残っているのは円周率パイの値だろう。昔は3.14と言われ、3桁の数の足し引きなんて大変な計算をやってきたのに、今の小学生は3という一桁の単純な数で計算が認められる。こんなズルイ話はないと思った人が少なくないわけがないんだ。そしてその弊害もわかっているから、論争になるんだ。
整数論の中にユークリッドの互除法という便利な話がある。
18と30の最大公約数を求めろ。
みたいな問題を簡単に解く方法だ。ユークリッドの互除法を使うと、
30と18の差は12だから、18と12の最大公約数を求めればいい。
18と12の差は6だから、12と6の最大公約数を求めればいい。
12は6で割り切れるので、18と30の最大公約数は6である。
こうやって差をとって数を小さくして、最大公約数を求めることができるのである。自慢じゃないが、僕はこんなのは、直感で知ってるものだと思っていた。
それなのに、同世代のある高校生に聞いてみたら、
30と18は2で割り切れる。
30と18は3で割り切れる。
30と18は5で割り切れない。
30と18は7で割り切れない。
30と18は13で割り切れない。
30と18は17で割り切れない。
19は18より大きい。
よって、30と18の最大公約数は2カケル3で6である。
みたいな効率の悪い考え方をしてるのだという。最大公約数を考えてるのに、どうして最小公約数を考えていかなきゃいけないんだろう。馬鹿じゃないだろうか。それじゃあ、デカイ数になったら対処できない。
そして、ユークリッドの互除法という便利な道具があるよ、と教えてやると驚くのだ。知らなかった!そして、その簡単な法則と、予想に反した結果から、数学の、まるで神秘的な公式の一つだと思って暗記するのである。
直感としては身につかないのである。暗記するのである。
言っておくが、ユークリッドの互除法は何にも難しい話じゃない。18と30の最大公約数を求めるということは、要するに縦18横30の長方形を、なるべく大きな正方形で分割しろってことなんだ。縦18横30の長方形は、6×6の正方形で敷き詰めることができるじゃないか。
そこで、当然ながら6×6の正方形で、18×18の正方形を敷き詰めることはできる。だったら18×30の長方形から、もうその正方形は最初から切り落としてしまってもいいじゃないか。詰め込めることはわかっているんだから。
これが直感的理解である。なのに、この直感がないのだ。この直感がないくせに、文字式を一杯使った証明を、数学で教えられる。そこでの感想は、何でかわからないけど、文字で置いたらうまく説明できてしまった、凄いなぁ、である。こんなのわかった内に入らない。
代数的な証明も大切だけど、それはあくまで理屈。理屈と直感が結びついて初めて頭がよくなるというものじゃないだろうか。理屈は数学で、直感が算数なのである。数学はどうでもいいが、算数は生きる上で必要な知恵である。買い物で計算ができない外国人はおかしいじゃないか。
だから、小学生には直感で国語も、算数も、理科も、社会も覚えさせる必要があるのだ。平仮名や漢字がとにかく書ければ、将来読み書きできなくなるなんて事態はありえない。面積を求める計算ができれば、将来積分だってできるようになる。テコの原理を知っていれば、モーメントの意味がわかる。一都一道二府四十三県を漠然とでも知っておけば、道に迷うことはない。
それを疎かにして、中途半端な総合学習とか、英語で会話できたって何の意味がないじゃないか。
直感と理屈が結びつく例をもう一つ挙げてみよう。算数の話をしていたので、やっぱり算数から持ち出してみる。
7パイと22はどちらが大きいかパイが3だったら当然22の方が大きい。では、パイが3.14だったら、7パイ=21.98なので悩むことになる。パイは3.141592...と延々と続く無理数であることを知ってるので、もしかして繰り上がって22になるかもしれないのでは、と疑うことになる。ここで、3.14という漠然とした直感に、無理数という理屈が付いてくるのだ。
他にもある。新過程の弊害か知らないが、円周角の定理とかいった初等幾何が中学から高校に移動したらしい。でも、やっぱりこんな話は、無駄に知恵の付いた高校生よりも、直観力の養える中学生に教えたほうがいいんじゃないか。
やっぱり直感を養う教育は大切だ。直観力が養えないゆとり教育なんて馬鹿なこと言ってちゃいけない。
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