チャット相手
2004年12月28日 最近はメッセンジャーにはまっているんですが・・・。
例の佐世保の事件以来、小学生が如何にインターネットを利用するかについて、教育の現場では色々と試行錯誤しているみたいですね。テレビでそんな特集がやっているのをたまたま観ました。
どんな教育かっていうと、まず子供たちにイントラネット環境でチャットをさせる。そのログはちゃんと残るのですね。そしてログをホームルームの議題に持ってきて、『言ってはいけない言葉』は無かったか思い出してみるのです。
「うざい!」とか「死ね!」とか、子供たちは平気でチャットで使ってしまうそうです。そんなわけで、ホームルームで見直したおかげで、後悔、反省の念から今後気をつけようってことになる。
そんな感じの教育がなされているようです。
なんだか違和感を覚えました。そもそも、毎日顔を会わせている友達とチャットをするという感覚が理解できない。インターネットコミュニケーションというのは、基本的に顔を合わせたことのない人、あるいは滅多に顔を合わすことのできない人とするものじゃないでしょうか。
そういう微妙な関係であるからこそ、それなりの礼節がパソコンの画面上に現れてくるわけだし、言葉も多少のタメ口はあっても、酷い言葉はまず使ったりしません。匿名掲示板での現象はまた別ですが。
却ってリアルの世界よりもヴァーチャルの方が人間礼儀正しくなってしまうんじゃないかと、そんなことまでも考えてしまうような印象を持っています。
しかし、小学生で行われているチャットはその根本が間違っている。チャットは毎日顔を合わせているような友達とやるもんじゃありません。ネット社会は顔が見えない、だからこそ『使ってはいけない言葉』が出てきてしまう、それが殺人事件にまで発展してしまった。これが彼らの解釈らしいですが、違うでしょう。
相手の顔は、画面越しに見えているのです。
毎日顔を合わせているんだから、内面というのが多少見えてくるでしょう。その会話の媒体が、パソコンになったからって、その人の頭の中には相手の存在があるわけだ。だから、画面に流れている言葉も、その人が喋っているものだと考えることが可能だ。
子供たちは「うざい!」とか「死ね!」とか、そういう言葉をチャットで使ってしまったという。でも、悪いけどその程度(といって済むような言動ではないかもしれませんが)の言葉、リアルでも使っちゃいますよ?
相手の顔が見えている証拠ではないでしょうか。
それどころか、このような言葉はデジタルになると、感情の一切が無くなってしまうので、逆に痛烈なものとして伝わってしまう可能性が高い。
でも、そのような言葉を使ってしまう理由は『顔が見えてないけど見えている』状況だから。そうなると、チャットという媒体は、『内輪の間でやると、却って人間関係を陰惨にしてしまう悪』というものにしかなりえない。そもそも友達どうしでやるチャットコミュニケーションの必要性はどこにもないのだから。
将来のための練習に、気心の知れた仲間とやってみた?そんな詭弁は通用するものか。相手の顔を知っているのと、知っていないのとでは全然状況が違う。はっきり言って、そんな教育はしない方がいいと思う。そもそもリテラシー能力の無い小学生がまともにチャットなんかできるわけないんだし。
そうやって開き直ってみなくても、例えばあまり交流の少ない他の小学校と共同して、チャットをやってみてはどうだろうか。そちらは本当に「顔が見えていない」のだから、ある程度の礼節が生じるだろう。
そこで無礼な行いをさせないのは、教師の監視すべき役目である。
例の佐世保の事件以来、小学生が如何にインターネットを利用するかについて、教育の現場では色々と試行錯誤しているみたいですね。テレビでそんな特集がやっているのをたまたま観ました。
どんな教育かっていうと、まず子供たちにイントラネット環境でチャットをさせる。そのログはちゃんと残るのですね。そしてログをホームルームの議題に持ってきて、『言ってはいけない言葉』は無かったか思い出してみるのです。
「うざい!」とか「死ね!」とか、子供たちは平気でチャットで使ってしまうそうです。そんなわけで、ホームルームで見直したおかげで、後悔、反省の念から今後気をつけようってことになる。
そんな感じの教育がなされているようです。
なんだか違和感を覚えました。そもそも、毎日顔を会わせている友達とチャットをするという感覚が理解できない。インターネットコミュニケーションというのは、基本的に顔を合わせたことのない人、あるいは滅多に顔を合わすことのできない人とするものじゃないでしょうか。
そういう微妙な関係であるからこそ、それなりの礼節がパソコンの画面上に現れてくるわけだし、言葉も多少のタメ口はあっても、酷い言葉はまず使ったりしません。匿名掲示板での現象はまた別ですが。
却ってリアルの世界よりもヴァーチャルの方が人間礼儀正しくなってしまうんじゃないかと、そんなことまでも考えてしまうような印象を持っています。
しかし、小学生で行われているチャットはその根本が間違っている。チャットは毎日顔を合わせているような友達とやるもんじゃありません。ネット社会は顔が見えない、だからこそ『使ってはいけない言葉』が出てきてしまう、それが殺人事件にまで発展してしまった。これが彼らの解釈らしいですが、違うでしょう。
相手の顔は、画面越しに見えているのです。
毎日顔を合わせているんだから、内面というのが多少見えてくるでしょう。その会話の媒体が、パソコンになったからって、その人の頭の中には相手の存在があるわけだ。だから、画面に流れている言葉も、その人が喋っているものだと考えることが可能だ。
子供たちは「うざい!」とか「死ね!」とか、そういう言葉をチャットで使ってしまったという。でも、悪いけどその程度(といって済むような言動ではないかもしれませんが)の言葉、リアルでも使っちゃいますよ?
相手の顔が見えている証拠ではないでしょうか。
それどころか、このような言葉はデジタルになると、感情の一切が無くなってしまうので、逆に痛烈なものとして伝わってしまう可能性が高い。
でも、そのような言葉を使ってしまう理由は『顔が見えてないけど見えている』状況だから。そうなると、チャットという媒体は、『内輪の間でやると、却って人間関係を陰惨にしてしまう悪』というものにしかなりえない。そもそも友達どうしでやるチャットコミュニケーションの必要性はどこにもないのだから。
将来のための練習に、気心の知れた仲間とやってみた?そんな詭弁は通用するものか。相手の顔を知っているのと、知っていないのとでは全然状況が違う。はっきり言って、そんな教育はしない方がいいと思う。そもそもリテラシー能力の無い小学生がまともにチャットなんかできるわけないんだし。
そうやって開き直ってみなくても、例えばあまり交流の少ない他の小学校と共同して、チャットをやってみてはどうだろうか。そちらは本当に「顔が見えていない」のだから、ある程度の礼節が生じるだろう。
そこで無礼な行いをさせないのは、教師の監視すべき役目である。
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