慈悲
2003年7月19日 昆虫採集というものが僕は気に入らない。正確には、虫を採集して標本に仕立て上げることがだ。
その理由を、とりあえず客観的(或いは理論的)な事項として列挙してみよう。
(1)虫を無駄に殺すと個体数が減少する
(2)人が自然に踏み込むことで、自然の秩序が破壊される
(3)採集する昆虫の多くは貴重か珍重なもの、種としての個体数が減少したら絶滅に繋がる
それに対して反論も数多い。
(4)人が少々捕まえたくらいで虫の数は減少しない
(5)自然の秩序を破壊しないように気をつければ、採集したって構わない
(6)貴重や珍重なものを採集しないと、研究に扱えない
(2)と(5)は、採る者のマナーに関わるものだから、どちらも正しいことであろう。願わくば(5)が正々堂々と云える採集者のみが自然に出てほしいものだ。
(1)と(4)も、どちらも正しい。虫の繁殖力は馬鹿ではない。ゴキブリ、ハエ、カなど、害虫と呼ばれるものは駆除されても駆除されても、絶滅することはない。(最近ギンバエが減ってきているようではあるが)
(1)の反論は、(3)と(6)の種の存続問題へ繋がる。しかし、僕は思うのである。“種”という存在がこの世界にそれほどまでに必要なものだろろうか。自然界が多様である必要性などはない。単に面白みがないだけだ。
こうなると、理論的には肯定派に旗があがってしまいそうだ。更に、肯定派の(1)への反論は拡大する。
(7)森林伐採やら河川埋立やらで、採集以上の多くの虫たちが死んでいる。
この反論は正しくない。議論の摩り替えだからだ。
人にたとえてみよう。大国が武器や権力を以って弱小国家を攻撃した。戦果は明確。弱小国家の多くの罪無き人々が殺された。日常茶飯事にあるようなこと・・・かもしれない。
“戦争で多くの人々が死んでるんだ。俺が一人や二人殺したって変わるものか”
(8) (7)の反論を許したらこんな馬鹿げたことを言い出す奴が現れてしまう
だから、虫を殺してはいけない。
しかし、(8)の反論にも不備がある。肯定派は更にこう反論できるだろう。
(9)そもそも人と虫を同一視することが間違っている
これは仏教の万物平等を信仰するかどうかで違ってくる解釈だ。人と虫とでは、構造を始め生育器官、活動、知能など全然違うこれが、平等と言えようか。
そんな感じで、生物は皆平等でないと断言できるのならば、(9)の反論は通るだろう。
さて、いろいろ議論を探してみたが、どれも僕の考えとは違う。
(6)の議論に戻ろう。昆虫採集をしないと、研究ができない、というものだ。そう、標本の超目標には“研究”というものが待っているのである。
しかし、“研究”とは必要不可欠なことなのか。虫を虐殺しておきながら、その虫の“生き様”を研究しているなんておかしくはないか。果たして、虫を虐殺してまで得る研究に、何の価値があるのか?そもそも研究とは何のためにやるのか。
どうも、世の中には“研究”を“義務”だと感じている学者がいるようだ。実際は、研究をすることで、人生の立派な偉業を果たしたという、優越感にひたっているだけではないか。
研究をやる理由、それは知的好奇心だ。好奇心がために、虫を大量虐殺する。何と愚かだろう。
とはいえ、この理論は“万物平等”の下に成り立っている。虫は所詮ピラミッドの下にいる程度のものだ。知的好奇心を満たすにはちょうど良い基盤だ・・・などと思っている人間はどうしようもない。
結局、水掛け論にこのテーマは終わる。理屈の上では“殺してもいい”し、“殺してはいけない”のだ。
となると、理屈の先にあるものが必要だろう。虫を殺すなんて可哀想だ。こう思う心が何より大切だ。
昆虫標本の中にいる虫たちは、全く生き生きとしていない。当たり前だ、殺されたのだから。一方、自然の中にいる昆虫はとても生き生きとしている。当たり前だ、いるべき場所にいるのだから。
虫にピンを刺して喜んでいる輩に慈しみという感情が見られない。何とさもしいことであろう。
その理由を、とりあえず客観的(或いは理論的)な事項として列挙してみよう。
(1)虫を無駄に殺すと個体数が減少する
(2)人が自然に踏み込むことで、自然の秩序が破壊される
(3)採集する昆虫の多くは貴重か珍重なもの、種としての個体数が減少したら絶滅に繋がる
それに対して反論も数多い。
(4)人が少々捕まえたくらいで虫の数は減少しない
(5)自然の秩序を破壊しないように気をつければ、採集したって構わない
(6)貴重や珍重なものを採集しないと、研究に扱えない
(2)と(5)は、採る者のマナーに関わるものだから、どちらも正しいことであろう。願わくば(5)が正々堂々と云える採集者のみが自然に出てほしいものだ。
(1)と(4)も、どちらも正しい。虫の繁殖力は馬鹿ではない。ゴキブリ、ハエ、カなど、害虫と呼ばれるものは駆除されても駆除されても、絶滅することはない。(最近ギンバエが減ってきているようではあるが)
(1)の反論は、(3)と(6)の種の存続問題へ繋がる。しかし、僕は思うのである。“種”という存在がこの世界にそれほどまでに必要なものだろろうか。自然界が多様である必要性などはない。単に面白みがないだけだ。
こうなると、理論的には肯定派に旗があがってしまいそうだ。更に、肯定派の(1)への反論は拡大する。
(7)森林伐採やら河川埋立やらで、採集以上の多くの虫たちが死んでいる。
この反論は正しくない。議論の摩り替えだからだ。
人にたとえてみよう。大国が武器や権力を以って弱小国家を攻撃した。戦果は明確。弱小国家の多くの罪無き人々が殺された。日常茶飯事にあるようなこと・・・かもしれない。
“戦争で多くの人々が死んでるんだ。俺が一人や二人殺したって変わるものか”
(8) (7)の反論を許したらこんな馬鹿げたことを言い出す奴が現れてしまう
だから、虫を殺してはいけない。
しかし、(8)の反論にも不備がある。肯定派は更にこう反論できるだろう。
(9)そもそも人と虫を同一視することが間違っている
これは仏教の万物平等を信仰するかどうかで違ってくる解釈だ。人と虫とでは、構造を始め生育器官、活動、知能など全然違うこれが、平等と言えようか。
そんな感じで、生物は皆平等でないと断言できるのならば、(9)の反論は通るだろう。
さて、いろいろ議論を探してみたが、どれも僕の考えとは違う。
(6)の議論に戻ろう。昆虫採集をしないと、研究ができない、というものだ。そう、標本の超目標には“研究”というものが待っているのである。
しかし、“研究”とは必要不可欠なことなのか。虫を虐殺しておきながら、その虫の“生き様”を研究しているなんておかしくはないか。果たして、虫を虐殺してまで得る研究に、何の価値があるのか?そもそも研究とは何のためにやるのか。
どうも、世の中には“研究”を“義務”だと感じている学者がいるようだ。実際は、研究をすることで、人生の立派な偉業を果たしたという、優越感にひたっているだけではないか。
研究をやる理由、それは知的好奇心だ。好奇心がために、虫を大量虐殺する。何と愚かだろう。
とはいえ、この理論は“万物平等”の下に成り立っている。虫は所詮ピラミッドの下にいる程度のものだ。知的好奇心を満たすにはちょうど良い基盤だ・・・などと思っている人間はどうしようもない。
結局、水掛け論にこのテーマは終わる。理屈の上では“殺してもいい”し、“殺してはいけない”のだ。
となると、理屈の先にあるものが必要だろう。虫を殺すなんて可哀想だ。こう思う心が何より大切だ。
昆虫標本の中にいる虫たちは、全く生き生きとしていない。当たり前だ、殺されたのだから。一方、自然の中にいる昆虫はとても生き生きとしている。当たり前だ、いるべき場所にいるのだから。
虫にピンを刺して喜んでいる輩に慈しみという感情が見られない。何とさもしいことであろう。
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