罪の天秤
2003年7月11日 中学生が子供をビルから突き落としたことで波紋を呼んでいますね。突き落としただけで殺したつもりはなかったのでしょうけれど。“落としたらどうなるのか”。その先に待つ事を予想できなければ実践し得ないのだから。
ニュースによれば、学校でもトップクラスの成績だったらしいけれど、人間としては単なる馬鹿ですね。
ところで、ふと思うのだけれど、人間としてでなく生物としてならどうだろう。“殺人なんて生き物の中で人間しかやらない”なんて詭弁を時々聞くけれど、実際のところ動物の世界でよく見られることらしい。ストレスの溜まっているサルが子供に当たった、とかよく聞く。
人間も生物の一部なのだから、こんなことがあってもおかしくはない。だから、私は犯罪者を生物として許すことができる。
とはいえ、人間として、正確には人間社会として許されはしない。人間という種がある以上、他の種と同一視するのは愚か者のやることだから。(巷の詭弁も同様ですね)
僕は罪を“糧”によって判断したいと思う。つまり、その罪によって、罪を犯すに値するほどの価値がある糧があったのか。
その少年が、罪を犯すことによって“犯罪は後悔するものだから他人だけでなく自分にとっても有益なことではない”という真理を手に入れたとしたら、それは糧となるだろう。
しかし、その糧に値するほどの犠牲を伴ったかといえば、そんなわけがない。“人殺しはいけない”などという真理は考えるのも馬鹿らしいほど当たり前のことであり、人命を掛けてまで得るほどのたいそれたものではない。
秤にかければ、少年の罪と子供の命は、間違いなく後者にぐんと傾くだろう。その秤を均し、逆に前者の方にぐんと傾けるために、少年は罰を受けて反省しなくてはならない。
しかし、罰によって秤は均されるだろうか。私怨や復讐を伴った殺人者ならば、可能ではあろうが、単なる愉快犯にそんなことは不可能だろう。
そこで思うのだ。そんなことならいっそ天秤自体を無くしてしまえばいい。罪人が存在するという事実さえなくしてしまえば。
死刑廃止が盛んに唱えられているが、そのような社会に不利益な天秤を無くすことに、死刑は重要な意味を持つのではないか。
その少年が、二度と表舞台に出ないことを望む。
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そんな馬鹿が少年が出ないために、金八先生の新シリーズを放映するべきだと思うがどうだろう(笑)
ニュースによれば、学校でもトップクラスの成績だったらしいけれど、人間としては単なる馬鹿ですね。
ところで、ふと思うのだけれど、人間としてでなく生物としてならどうだろう。“殺人なんて生き物の中で人間しかやらない”なんて詭弁を時々聞くけれど、実際のところ動物の世界でよく見られることらしい。ストレスの溜まっているサルが子供に当たった、とかよく聞く。
人間も生物の一部なのだから、こんなことがあってもおかしくはない。だから、私は犯罪者を生物として許すことができる。
とはいえ、人間として、正確には人間社会として許されはしない。人間という種がある以上、他の種と同一視するのは愚か者のやることだから。(巷の詭弁も同様ですね)
僕は罪を“糧”によって判断したいと思う。つまり、その罪によって、罪を犯すに値するほどの価値がある糧があったのか。
その少年が、罪を犯すことによって“犯罪は後悔するものだから他人だけでなく自分にとっても有益なことではない”という真理を手に入れたとしたら、それは糧となるだろう。
しかし、その糧に値するほどの犠牲を伴ったかといえば、そんなわけがない。“人殺しはいけない”などという真理は考えるのも馬鹿らしいほど当たり前のことであり、人命を掛けてまで得るほどのたいそれたものではない。
秤にかければ、少年の罪と子供の命は、間違いなく後者にぐんと傾くだろう。その秤を均し、逆に前者の方にぐんと傾けるために、少年は罰を受けて反省しなくてはならない。
しかし、罰によって秤は均されるだろうか。私怨や復讐を伴った殺人者ならば、可能ではあろうが、単なる愉快犯にそんなことは不可能だろう。
そこで思うのだ。そんなことならいっそ天秤自体を無くしてしまえばいい。罪人が存在するという事実さえなくしてしまえば。
死刑廃止が盛んに唱えられているが、そのような社会に不利益な天秤を無くすことに、死刑は重要な意味を持つのではないか。
その少年が、二度と表舞台に出ないことを望む。
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そんな馬鹿が少年が出ないために、金八先生の新シリーズを放映するべきだと思うがどうだろう(笑)
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