苟且の自然に
2003年4月16日 古典の試験の範囲に徒然草の第十段があった。現世における住まいをどうたら語った随筆文で、その一説、
――草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。
多くの工匠の手によって煌びやかに飾り立てられた住まいは、趣がなく美しくない。なぜ最小限自然に任せないのか。
今の時代でも、アスファルトにコンクリートの町に住んでいる人たちが、自然を侵して美しさを求める風潮はある。
そんな彼らの美的概念はおそらく似非である、と私は思う。『自然⇒美しい』は、私も確かにそう思うが、そんな事実を彼らは真に受けて、いつの間にやら『美しくないものは自然でない』即ち『人工物は美しくない』と取り違えているに違いない。
ここで云っている人工物とは“美術品”ではない。身近な、第十段で使われている言葉を使えば“えならぬ調度品”である。
美しさと醜さは紙一重だ。人工の町の中にも自然はある。単なる調度品、仮初な自然、それらを深く覗いたことのある人は少ないだろう。均衡のとれ、天然の美を求める前に、一度ミスマッチな身近な美を探してみてはどうだろうか。
――草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。
多くの工匠の手によって煌びやかに飾り立てられた住まいは、趣がなく美しくない。なぜ最小限自然に任せないのか。
今の時代でも、アスファルトにコンクリートの町に住んでいる人たちが、自然を侵して美しさを求める風潮はある。
そんな彼らの美的概念はおそらく似非である、と私は思う。『自然⇒美しい』は、私も確かにそう思うが、そんな事実を彼らは真に受けて、いつの間にやら『美しくないものは自然でない』即ち『人工物は美しくない』と取り違えているに違いない。
ここで云っている人工物とは“美術品”ではない。身近な、第十段で使われている言葉を使えば“えならぬ調度品”である。
美しさと醜さは紙一重だ。人工の町の中にも自然はある。単なる調度品、仮初な自然、それらを深く覗いたことのある人は少ないだろう。均衡のとれ、天然の美を求める前に、一度ミスマッチな身近な美を探してみてはどうだろうか。
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