忘れられない思い出

2003年4月15日
 学校に居るのに昼にラーメンが食べれる。教師が寛容で全然厳しくない。自習ともなれば自宅に早く帰れる。中学よりなんて楽なんだろう、としみじみと思う今日この頃。実力試験(とは名ばかりの宿題の確認テスト)が差し迫って、毎回のように「どうしてもっと早く(以下略)」と嘆かわしく思う。

 私は(知的好奇心の為の)勉強はもともと嫌いじゃなくて、むしろ好きなのに。どうしてテストの為の宿題はこうも詰まらなく、面倒でかったるくってその上苦痛なんだろう・・・と日本中の誰しもが思っていることを追認する。

 で、ある事実、即ち教育の欠点に気が付いた。それは“テスト中辞書が引けない”ということだ。

 本末転倒だと思われるだろう。しかし、それは根本的な考えに誤りがあるからだ。勉強とは何のためにある?国語だったら言語の意味を深め、数学だったら数のロジックの本質を見抜き、社会だったら世の中の道理を理解し、理科だったら身の回りにおこる不可解かつ当たり前な現象を理論的に考え、外国語だったら他国との意思疎通交流を行うこと。この中に、例えば“漢字を全て記憶している”“公式を完全に網羅していること”“日本の各地地名を覚えていること”云々なんて事項は無い。

 英単語やら公式やら古語やら、それらの暗記は決して“勉学”において必須ではないのである。それとなく理解し、後は活用さえできれば覚えている必要はないのだ。

 人の記憶力なんて高がしれてる。どうせ忘れてしまうものを覚えても意味がないし時間の無駄だ。古典を例に挙げれば、テストの傍らに辞書を置いて、古語の意味、活用の種類などを即間違えずに調べられれば、あとは読解の問題である。国語することの意味は云うまでもなく読解力を深めることだ。

 人が多くの事項を忘れられない思い出にするのは不可能だ。しかも誤って暗記して、頭にインプットされてしまったら大変ではないか。こんなことに時間を割くから、我々知的生命体は馬鹿になる一方なのだ。そうに違いない。

 辞書並の頭脳を持っていても、それは円周率を何千桁覚えていることと何の変わりも無い。

 教育界は勉学の本当の意味を見失っているのではないか。

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 テスト勉強の気分転換に書き殴りました(^^;)いくら熱く語っても、現実することは不可能なんだよなぁ・・・仕方ない、真面目に勉強するか。

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