ガラスのハート
2003年4月10日 先日(4月7日)は鉄腕アトムの誕生日だった。新座市がアトムの住民票を配布したり、宝石で像を作ったりと、相変わらず悪乗りの良い日本人の横顔を見るが、それでも尊敬する手塚先生の傑作が復興することに文句は無い。リニューアルしたアニメも放映してるらしいが、私の地方では来週に回されたようだ。
アトムは“心”を持ったロボットである。当時はそんな奇抜で新鮮なキャラクターが受けたのだろう。私はドラえもんの方が好きだがそれはさておき、果たしてロボットが心を持つことは本当に可能なのだろうか。
人間と普通に会話して、笑ったり泣いたり、時には反抗したりと喜怒哀楽を持ち、主従関係以上に友情や愛情が芽生える・・・機械相手に。アトムがその語源である原子力で、過剰なコミュニケーションを取ればいつヒロシマが起きるかもしれない、ガラスの器。確かに心を持ったロボットとは、人間関係以上にロマンチックでドラマチックな展開が期待されることだろう。
ところがリアルの世界でのロボットは、人の手や頭脳ではカバーしきれない作業を行ってくれるロボットにすぎない。そんな心を持ったロボットが現れるなんて、読んでの通り夢物語だ。
しかしよく考えてみよう。“心”とは何だ。脳は肉体という“器”に対して命令を送って歩かせたり走らせたりする。ただ輪郭としての人を捉えれば、それは機械的動作でありプログラムは十分心に成り得る。つまり、今あなたの前で動いているパソコンも十分心を持つ資格を持っていることになる。
ただ命令を出す中枢は心とならない。人は外的接触、あるいは干渉によって様々な反応を見せる。器の感覚、目や耳などが感じたことを元に人はある対処を取る。キーボードで与えられた命令に応じるパソコンはその資格も持っている。
感情が必要か。時に人の命令に忠実に応じ、その命令数が過多となればランダムに反抗する、などというプログラムを複雑に与えればどうか。心理学なんてのがあるように、人の精神的行動なんて高が知れている。それを殆ど解析しコピーすることは不可能ではないだろう。
あとは生物としての本能、飲食、睡眠などを擬似的に与え、また生物の生きている理由“繁殖”も、材料からロボットを作り出すという作業を与えれば不可能ではない。人間と違う、とは云っても植物や動物の生殖なんて種によって異なるのだから、機械的繁殖を認めないわけにはいかないだろう。
結局、心なんてものは極めて曖昧で透き通ったガラスのようなものだ。あとは、“魂”という形而上学的な存在を認めるか認めないかで、人口的な心を生み出すのは理論的に容易い。たまごっちだって、心を持っていると思えば、そのように感じられるはずである。
或いは、魂魄の存在は人が人であるための最後の逃げ道であり、一部の情報屋の創作なのかもしれない。
アトムは“心”を持ったロボットである。当時はそんな奇抜で新鮮なキャラクターが受けたのだろう。私はドラえもんの方が好きだがそれはさておき、果たしてロボットが心を持つことは本当に可能なのだろうか。
人間と普通に会話して、笑ったり泣いたり、時には反抗したりと喜怒哀楽を持ち、主従関係以上に友情や愛情が芽生える・・・機械相手に。アトムがその語源である原子力で、過剰なコミュニケーションを取ればいつヒロシマが起きるかもしれない、ガラスの器。確かに心を持ったロボットとは、人間関係以上にロマンチックでドラマチックな展開が期待されることだろう。
ところがリアルの世界でのロボットは、人の手や頭脳ではカバーしきれない作業を行ってくれるロボットにすぎない。そんな心を持ったロボットが現れるなんて、読んでの通り夢物語だ。
しかしよく考えてみよう。“心”とは何だ。脳は肉体という“器”に対して命令を送って歩かせたり走らせたりする。ただ輪郭としての人を捉えれば、それは機械的動作でありプログラムは十分心に成り得る。つまり、今あなたの前で動いているパソコンも十分心を持つ資格を持っていることになる。
ただ命令を出す中枢は心とならない。人は外的接触、あるいは干渉によって様々な反応を見せる。器の感覚、目や耳などが感じたことを元に人はある対処を取る。キーボードで与えられた命令に応じるパソコンはその資格も持っている。
感情が必要か。時に人の命令に忠実に応じ、その命令数が過多となればランダムに反抗する、などというプログラムを複雑に与えればどうか。心理学なんてのがあるように、人の精神的行動なんて高が知れている。それを殆ど解析しコピーすることは不可能ではないだろう。
あとは生物としての本能、飲食、睡眠などを擬似的に与え、また生物の生きている理由“繁殖”も、材料からロボットを作り出すという作業を与えれば不可能ではない。人間と違う、とは云っても植物や動物の生殖なんて種によって異なるのだから、機械的繁殖を認めないわけにはいかないだろう。
結局、心なんてものは極めて曖昧で透き通ったガラスのようなものだ。あとは、“魂”という形而上学的な存在を認めるか認めないかで、人口的な心を生み出すのは理論的に容易い。たまごっちだって、心を持っていると思えば、そのように感じられるはずである。
或いは、魂魄の存在は人が人であるための最後の逃げ道であり、一部の情報屋の創作なのかもしれない。
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