贖罪と刑罰
2003年3月5日 推理小説を読んでいると、犯人が(自殺しなければ)警察に逮捕され罪を償う、という形にで終幕を迎えることが多い。法廷モノはこの段階を扱うのだから、ここでは除外するが、本当に法による刑罰が贖罪に相等するのか、といえば違うような気がする。
“罪”があるのだから、そこには加害者と被害者がある。そして、贖罪とは加害者が被害者に与えた損害をある手段によって帳消しにするものだと考えればよい。それでは刑罰とは何だろう。これは罪人に贖罪を委ねる為の手段ではない。刑務執行は常に刑罰権を持つ国家によって行われるもので、被害者はそれに全く関与しない。
例えば、加害者が被害者にとって“生”さえも剥奪したい罪を犯し、国家が加害者に死刑を宣告したとしよう。加害者は自らの死を以て罪を償うのだが、断頭台の紐を引くのも、絞首台の板を外すのも、被害者が執り行えることではない。つまり、刑罰は被害者に対する贖罪ではない、と云える。
つまり、刑罰とは秩序を乱したことに対する制裁だ。よくもこの国で厄介事を起こしてくれたな、という事実という罪への罰であり、よくも私にこんなことをしてくれたな、という直接的な罪への罰ではないのだ。
実際、罰金刑は被害者に金が送られるわけではなく、国庫に納められて国家維持に扱われる。つまり、刑罰は“罪の税金”でしかなく、贖罪は絶対に行われない。
現実世界では秩序を大切にしてもらいたいから、それでも一向に構わない。が、国に対する償いを、被害者に対する贖いよりも優先するような話(推理小説)は好きになれない。
要するに、警察に逮捕してもらえばそれでいい、なんていう中途半端な終わり方をするミステリは読み飽きた、って事(^^;;)まぁ、妙な世界観を押し付けるわけにもいかないから当然のことなんだろうけど。
“罪”があるのだから、そこには加害者と被害者がある。そして、贖罪とは加害者が被害者に与えた損害をある手段によって帳消しにするものだと考えればよい。それでは刑罰とは何だろう。これは罪人に贖罪を委ねる為の手段ではない。刑務執行は常に刑罰権を持つ国家によって行われるもので、被害者はそれに全く関与しない。
例えば、加害者が被害者にとって“生”さえも剥奪したい罪を犯し、国家が加害者に死刑を宣告したとしよう。加害者は自らの死を以て罪を償うのだが、断頭台の紐を引くのも、絞首台の板を外すのも、被害者が執り行えることではない。つまり、刑罰は被害者に対する贖罪ではない、と云える。
つまり、刑罰とは秩序を乱したことに対する制裁だ。よくもこの国で厄介事を起こしてくれたな、という事実という罪への罰であり、よくも私にこんなことをしてくれたな、という直接的な罪への罰ではないのだ。
実際、罰金刑は被害者に金が送られるわけではなく、国庫に納められて国家維持に扱われる。つまり、刑罰は“罪の税金”でしかなく、贖罪は絶対に行われない。
現実世界では秩序を大切にしてもらいたいから、それでも一向に構わない。が、国に対する償いを、被害者に対する贖いよりも優先するような話(推理小説)は好きになれない。
要するに、警察に逮捕してもらえばそれでいい、なんていう中途半端な終わり方をするミステリは読み飽きた、って事(^^;;)まぁ、妙な世界観を押し付けるわけにもいかないから当然のことなんだろうけど。
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