言葉のリレー

2003年3月4日
 我々は感覚は言語に支配されているような気がする。頭の中で何かを考えるとき、それは確かに(日本人なら)日本語であるし、コンピュータの様に、“P⇒Q”が司っているとは思えない。

 ところで百科辞典を作った人は物凄く感覚に長けていると思う。もちろん、百科事典を作るには相当な語彙が必要だが、何より“言葉の意味を説明する力”が不可欠だ。

 適当な言葉を思い浮かべ、それの意味を考える。例えば“能力”。大辞林(http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?pg=jiten_ktop.html&;col=KO)によれば“物事を成し遂げることのできる力”となっている。それでは“成し遂げる”とはなんだろう。同じく大辞林では“物事を最後までしとおす”こととなっている。“最後”とは何だろう。“物事の一番おしまい”となっている。“一番”とは何だろう。“最も”となっている。“最も”とは何だろう。“比べたものの中で程度が一番上であることを表す”となっている。“程度”とは何だろう・・・・・・。

 このように、言葉の意味を説明するには他の言葉が必要で、それに終わりはない。簡単な例で云えば“何って何”だ。また、意味の中で最初、若しくは途中で挙げた言葉が現れたとき、以後ループしてしまう。つまり、言葉は絶えず他の言葉にバトンタッチして“リレー”しているのである。

 我々は言語に支配されているような気がするが、言語には底が無いのだから単に感覚が言語を借りているに過ぎないのである。もし、底があるのだとしたら、この文章はたった1つの言葉で言い表すことができるはずである。

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